『肝斑-しみ-』

怪異の原因が明確であり、その現象自体も誰もが認知できるものである。この種の現象として因果関係がはっきりしており、なかなか興味深い超常現象であると言えるだろう。ところが、これだけ明快な因果にもかかわらず、書き方のためにまどろっこしい展開になってしまっている。
トイレに現れたシミが娘を捨てた男の顔に似ており、娘の部屋から漏れ出る音と何らかの関連があることが濃厚であることはおそらく間違いのない推測であるし、むしろ怪談としてはそのような因果律を読み手に印象づけることこそが技量であると言える。ところがこの作品では、その決定的な因果律を逆に曖昧にして、シミの正体の謎解きで話を終了させている。この展開では、どうしても話がこぢんまりとしてしまい、怪異としての奥深さが望めないのである。もっと具体的に言えば、因果話としては単にシミと娘との関係が明らかになったところで話が終わってしまっており、そこからさらに発展するであろう怪異の顛末、すなわちシミが今後どのようになっていくのかという部分が欠落しているように読み手には見えてしまうのである。人の顔に見えるシミが現れたという超常現象に対して、それが娘を捨てた男であり、娘が部屋に引きこもって何かをしていること(おそらく写真か何かに釘を打ち付けて呪詛している)がそのシミの出現の原因であるだろうと示唆するところで終わるのであれば、非常に物足りない部分を感じざるを得ない。やはりこのような因果を基調とする怪異、しかも明確に物理現象として存在している場合、それがどうなっていくのかの方に興味は注がれるのが常であると思う。
書き手としては、シミの正体が怪異の肝であるという認識を持って書いていると推察する。しかしこの作品の場合、シミの正体を突き止めることは容易であり、しかもその因果関係が明瞭である。おそらく怪談に慣れ親しんでいる読み手からすれば、この程度の謎解きで終わってしまうのは消化不良と言うべきであろう。あるいは書き手の取材不足という印象を持つことになると思う。要するに、怪異の肝としてこれで話を閉じてしまうのは、今までの実話怪談の手法としてはインパクトが足りないという意見である。逆に言えば、怪異に対して持っている情報が少ないが故に、この作品のように因果の謎解きを肝としてまとめたのだろうとも受け取れるのである。
最終的な判断としては、怪異譚としてまとめる時期がまだ早すぎる、シミの存在がどのようになっていくのかの顛末があってこそ完結する怪異であると思うところが大きい。実話怪談の場合、リアルタイムで進行している怪異を無理に切り出して作品化すべきではないとの意見であり、その点で言えば、書き手が怪異の本質を見極め切れていないという印象である。それなりに巧くまとめて読めるようにはしているが、ある意味、怪異に対しては小手先勝負であるとも感じる。「怪異が書かれることを求めている」という話は、怪談作家としてそれなりに名を成している人であれば、いくつかは体験していることであると聞く。その“声”を正しく聞くことが、怪異の本質を的確に捉えることではないかと思う。今後の顛末に興味があるから敢えて苦言を呈したいと思うところである。ただ実話に限定せず、怪談としてはしっかりと成立している作品であると思うので、マイナス評価までは至らず。可もなく不可もなくというところで落ち着かせていただく。
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