『てのひら怪談 2』作品評の二

デウス・エクス・リブリス』
この作品は広義の怪談の範疇にも入らないと言える。通常のレベルでは考えられないような出来事が書かれてはいるものの、あくまで本の図版の保存方法の一手段であり、人為のものであると判断できる。しかもその“技術”がオカルト的なものを由来としているという記述がないため、人知を越えた何かが作用していると見ることができないからである。要するに、タイムマシンが登場する話がそれだけでは怪談ではないように、これもまた空想的であるが決してオカルト的な要素を持つものではないという認識である。
だが、こんな些末な議論はよいのである。このような濃密な作品が現れること自体が驚異であり、それを読める僥倖を得たことさえ感謝すれば、それで良いのである。博物学的知識、有機的な変容(メタモルフォーゼ)、閉じられた小宇宙(ミクロコスモス)…どれをとっても、かの澁澤龍彦へのオマージュに満ちあふれていると言っても間違いない世界を手放しで絶賛しても、おそらく誰も咎め立てはしないだろう。それほどこの作品の完成度は高いと思うし、ある意味、この百話の作品集の中で一等の席を占めるものであるとも感じる。作者の作品を一度まとめて読みたいという衝動に駆られている最中である。


『幽霊画の女』
実話怪談マニアの間では認知されたカテゴリーであるが、これはまさに“怪談落語”である。最初の“すずめで膠作り”というところでリアリズム的に引っかかってしまって、初読の際は少々斜に構えて読んでしまったが、軽妙な兄弟のやりとりのテンポよさに次第にはまっていった。このどこか浮世離れした会話が、あり得ない幽霊画との情事に現実感を与えていると言っても良いだろう。まさに落語のノリである。
幽霊と情を交わすという話はそれこそ創作物では数限りなくあるが、ここまで薄情なキャラクターはあまり見かけない。だが、その飄々とした展開故に、それほど嫌な人間には見えなかった。むしろ薄情の“薄”はちょっとおつむの足りない意味という印象すら持った。言い換えれば、作者によってそれだけ巧みに状況が組み立てられているということになるだろう。
最後の赤子の出てくるオチであるが、ありそうであまりない締め方ではないだろうか。だが人によっては、弟の言葉を酷薄に過ぎると言うかもしれないし、兄の情が移ってしまった態度をありきたりの締め方というかもしれない。率直な印象としては、“怪談=怪しいもの”という観念に縛られすぎたのではないかとも推測する。もっとスケベ根性丸出しで馬鹿に徹したオチに持ち込むことも可能だっただけに、もっとあっけらかんとした結末の方がよかったのではと個人的には思ったりもする。


『厄』
ストーリーらしいストーリーもなく、ただひたすら言葉の羅列がうずたかく積まれていく印象の作品である。それは悪い意味ではなく、むしろ“言葉の絵画化”というような大胆な発想が根底にあって出来た、非常に意欲的な作品であると思う。この作品で登場する言葉の禍々しさは、その言葉から連想されるビジュアルによって得られたのではなく、言葉そのものの形や響きによって編み出されたものである。その典型は、【厄】という文字を地図に見立てて、問題の公園がその中心に位置すると指摘する部分。このくだりを読んだ瞬間に、それまで茫洋とあった精神が一気に覚醒したほどである。イメージ勝負の作品であることには間違いないが、その意図するところのイメージは一般的なものを遙かに超えたところにあると言って間違いない。言うならば、【厄】を連想させる“もの”を羅列したのではなく、読者の心象風景に【厄】を授けるような言葉(もっと明確に言ってしまえば“呪詛”である)を打ち込んでいく作業を作者はおこなっているのである。言葉を通して邪悪なる何かを感じるのではなく、言葉そのものが邪悪なのである。
いわゆる呪詛系の真言を読んでいると、そこに書かれている意味はもう一つ掴みきれないのであるが、途轍もなく嫌な雰囲気の呑み込まれることがある。まさにこの作品を読んだ感想はそれに限りなく近いものがあり、その意味で驚愕に値する作品であると言える。恐れ入るばかりである。


『もんがまえ』
タイトルが秀逸。この作品のメインコンセプトである内容を言い表しているだけではなく、ストーリー展開そのものまでを暗示している。やはり掌編は、気の利いたタイトルの方が有利であるという認識を改めて感じさせてくれた。
全体的なストーリーは、まさに日常のちょっとした出来事から始まり、そこに違和感が鎌首をもたげドンドンと妄念というべき感情が暴走するという展開である。よくある話と言えばそれまでであるが、ここでも“もんがまえ”の存在が非常にセンスのいいアクセントとなっている。誤字というものは、本当に微妙な存在ではあるが、気になりだしたら最後、違和感の質としては非常に大きいものになる。この体験があるからこそ、このストーリーが実に自然な流れとして受け入れられるのではないだろうか。
しかし問題も存在する。怪談としてのインパクトの弱さが気になるのである。もっと具体的に言えば、主人公の女性が衝動に突き動かされていくのであるが、そこに禍々しい雰囲気が殆ど感じられないのである。内容からの印象では、多分旦那をとっちめるぐらいのことはするかもしれないが、殺意にまで至る気配はない。モチーフの中に“通り魔”的衝動があるはずなのであるが、一気に沸点に達することがなければ、どうしてもその部分に若干の不満が残る。些細な夫婦喧嘩の予兆では、やはり怪談と呼ぶのには厳しいものがある。創作だからこそ、大胆な展開を期待したいところである。


『のぼれのぼれ』
ある意味反則なぐらい、よくできた怪談話である。カテゴリーとしては“マンションに現れる霊”ということになるのだが、この手の怪談話は最近はグロ系も多く、どちらかと言えば気持ち悪くて嫌な霊体が登場することの方が圧倒的である。ところがこの話では子供を主人公とすることによって非常にソフトな怪談に仕上げている。また怪異自体も可愛いレベルだから、これは完全に狙ってきているとしか言いようがない。またそれがものの見事に命中しているから、すごく楽しんで読めた。
個人的には、この子供の霊は女の子ではないかとにらんでいる。しかも小池君にしかちょっかいを掛けない霊。もしかすると、マンションでありながら“座敷わらし”がモチーフされているのではと考えてしまうほどである。さらに全体を通して読むと、小池君が怖がっている様子もなく、むしろ冷静に対処しているところから、彼も結構楽しんでいる部分があるのではないかという想像をしている。そういう発想が出来るほど、この怪談話は暖かみを持った小品であると思う。
でも、同年代の子供が読んだら「こんなのつまんねーよ」とか言われそうな… 大人から見た“子供の世界”という一つの理想型によって作られた作品と言えるかもしれない。


灯台
全体的に“雰囲気先行”が強すぎるという印象である。何か禍々しい雰囲気をイメージさせる言葉が並んでいることは間違いないのであるが、それらがストーリーとして有機的に繋がっているというわけでもないように感じる。どちらかと言えば“謎の灯台にまつわる散文詩的な情景描写”というふうにしか見えない。心象風景であれば何となく理解できるのであるが、そうなると今度は“灯台”の持つ象徴的な意味合いが何なのか、その真意を測りかねる部分が出てくる。ストーリー性のある作品としても、また象徴詩的な作品としても、何か宙ぶらりんな印象だけが残ってしまったわけである。散文と韻文のおいしいところ取りをしようとして、結局どっちもつかずで終わってしまった感が強い。
しかも最後にきちんとしたまとめ的な言葉がないために、800字に達したので打ちきりという悪い印象もある。「とにかく自分の主張を書きました」という感じであり、読者に対してどのように魅せるのかという観点が非常に希薄である。改良すればまだまだ奥行きのある作品になる可能性はあると思う。


『磯牡蠣』
まさに実話怪談“風”のお手本である。“1974年”とか“玉寄神社”という固有名詞を散りばめながら物語が進行していくわけで、実話が実話としてリアリティを獲得するための必須アイテムを上手に作り出している。しかも「実は霊よりも怖いのが人間」という実話怪談のお約束ごとの1つを見事に演出している。ここまで巧くやられてしまうと、また「実話とか言っている作品にも本当は捏造・創作が混じっている」とか非難轟々の嵐になってしまうのではと、真剣に危惧してしまうほどの出来映えである。(ただしこの作品のような内容では、実話怪談の方が却って固有名詞を隠してしまうことになるだろう。あまりにダイレクトすぎるわけである)
全体的な構成の妙もさることながら、小道具の選択が心憎い。怪異が起こる貝の種類を“牡蠣”としたのは、秀逸としか言いようがない。あのプックリとしてブヨブヨとした牡蠣のイメージは、まさに目玉のドロッとした感触を彷彿とさせる。他の種類の貝であれば、あれほど不気味なビジュアルは想像できなかっただろう。そして“牡蠣”は生で食することが出来る数少ない貝類である。目の付いた牡蠣のイメージを固着させた後で、それを美味そうに生で食べる観光客の姿を想像するのは、正直痛いほど気持ち悪い。
強烈なインパクトとそれに付随する薄気味悪さがリアリティを持って語られている。これだけでもこの作品は一読の価値があると思う。


『白髪汁』
髪の毛が食べ物の中に入っていたら、それが自分のだと分かっていても、どうしても嫌な気分にさせられてしまう。他人の髪の毛であったら、なおさら生理的嫌悪感に包まれてしまう。この作品の狙い目はここであり、タイトルからして既に怪異モード全開で進んでいく。しかし逆に、最初からネタをばらしているようなものなので、どういう展開で行くのかと思いながら読んでいくと、最後にとんでもないシュールなものを提示してきた。創作物ならではの強烈な一撃であると思うし、このぐらいのレベルのものが出てこないと却って面白味がないだろう。
賛否両論あるかもしれないが、この作品の問題は、やはり味噌汁に入っていた髪の毛の量と、貝から出てきた老人の大きさに整合性がないという点だろう。創作であるが故のデフォルメと一蹴することも可能であるが、どちらかというと実話的な構成で書かれている作品だけに、そのあたりの配慮があれば更に輝きを増したのではないかという意見である。“お玉に絡みつく一束の髪の毛”でなくとも十分髪の毛に対する嫌悪感は表現できると思うし、強烈な臭いについても上手く処理できるのではないかと思う。中にはこういう細かな部分で違和感を感じる者もいるので、キッチュでシュールなぶっ飛んだ展開で押し込まず、日常的な現実感を伴うことを良しとするストーリーの場合は、そこまで神経を尖らせた方が一層良いのではないだろうか。とりあえず“実話怪談読みの視点から”ということで。


『焼き蛤』
この作品に登場する怪異は本当に些細なものである。しかもその些細な内容がわずか1行だけ、電話という間接的道具を通じて伝えられているだけである。はっきり言えば、主人公の母子は語られる怪異そのものも体験していない。まさに取るに足らない怪異の内容なのである。
しかしこの作品の中味は豊饒なイメージに溢れている。「怪を通じて人を語る」という世界を地でいくようである。父親が生きていた時の家族の雰囲気までがこの作品の中から読みとれるし、何か読んでいる側もホッとするような気分にさせられる。わずかな字数の中で、それだけしっかりとしたストーリーが広がっているのである。特に死んだ父親の性格を母子の会話などから浮かび上がらせることに成功しているので、怪異の些細さが弱点にならずに済んだのが、成功の鍵であるだろう。
ウエットな怪談を好む者としては、この作品を高く評価したいと思うし、またほっこりとした雰囲気を愛でたい。強烈な怪異も良いが、こういう静かなたたずまいを見せる怪異も格別なものである。怪談の奥行きを見せる好作品である。