『てのひら怪談 2』作品評の一

『赤き丸』
これはかなり恐怖感を煽る作品である。まず用いられている小道具類それぞれが、恐怖をダイレクトに引っ張り出してこれる。血の色を連想させる赤い丸、白塗りの顔が恐怖を覚えさせるピエロ、心霊画像の定番である防犯ビデオテープ、同じ衣装でわらわらと大量に集まってくる子供の群れ、半裸で徘徊する大人、そして全く無意味な行動の繰り返し。ここまで徹底して小道具にこだわれば、これらを単純に組み合わせるだけでも、イメージとして十分薄気味悪さを出すことが可能だろう。ただ実際には、わずか800字の中に多量の小道具を入れることは破綻を来す恐れもあるので、自然な流れの中で組み合わせることは相当高いレベルの力が必要であることは言うまでもない。
さらに加えるならば、敬体で語られる、体験証言風の文体がウエットな雰囲気を盛り上げている。敬体の表現はシャープな語りにならず、実話怪談系の作品に使うと非常に雰囲気が壊れるきらいがあるのだが、このストーリーの場合、とまどいを隠せない証言者という印象を強く感じさせ、恐怖感を与える効果を高めていると思う。これも意図的に採用しているのであれば、恐怖に対する嗅覚は並はずれていると言える。
一見すると多くのピエロが赤い鼻をあたり構わず押しつけて回るという滑稽な仕草でありながら、それが無音状態で無目的に行われているが故に(これが防犯ビデオに映っている姿が何故か薄気味悪い印象を与えるポイントの1つだろう)恐怖感を醸しだし、その不条理なギャップがより強烈なインパクトを与えていると言えるだろう。小道具を駆使し、緻密に計算された構成で書き出された内容は、評価されるべくして評価された作品にふさわしいものであると確信する。非常にレベルの高い作品である。


『シャボン魂』
シャボン玉=魂というアナロジーはやはり陳腐なものである。特に実話怪談の世界では、実際にそのような展開となるものが多数あり、はっきり言ってマンネリ感が強い。特にタイトルに“魂”と書かれているために、本文を読むまでもなく内容が知れてしまった。
ただ、実話とは違うのは、後半の意図的な展開である。少年の少女に対する淡い感情が具体的に書かれ、それを機に少女が現れなくなり、最後に赤いシャボン玉が登場するという流れは、明瞭に作者が読者を導いていこうとする展開である。そしてその展開は、シャボン玉の“赤”色によって見事に単調さから脱却しているように感じる。この赤いシャボン玉の存在があるからこそ、あまりにも予定調和的なノスタルジーから一歩抜け切れているように感じるし、不可思議さが加味されていると思う。特に赤い飛沫が襟につくという最後の一行は、ビジュアル的にも鮮明なインパクトを与えるものとして、思わずハッとさせられた。
この作品が“実話”と銘打たれていたならば、間違いなく「あざとい」という感想が多数寄せられるだろう。しかし創作としては、少々陳腐であるが、何か心に響くものを受け止めることができる佳作だと感じる。単純に事実説明だけではなく作者の意図を全体に感じながら読むことになるために、作者の思いの浸透具合が異なるせいなのかもしれない。


『呼び止めてしまった』
この作品は、最後の1行をどのようにでも解釈できるため、どうしようもなく戸惑いを覚えた。なぜ健一の顔がみるみる変わったのか。声をあげてしまった僕に対する反応なのか、それとも突如として現れたノブに対する反応なのか、それすらも本文の中で判定する手段を見つけることは不可能である。しかも冒頭部分からも謎は連続しており、必然的な表現が全く必然性を有していないといった展開には辟易とさせられるものがあった。とにかく全ての面において謎だらけであり、解釈の施しようがないというのが正直な感想である。
多重な解釈というものは、こういう掌編の場合、幅を持たせるという点でも有効な手法であると考える。だが、ここまで解釈が広がるというのは果たしてプラスに作用するのかと問われると、即答しかねるところである。独特の世界観と言えるかもしれないが、もう少し読者に対してカギを渡してもよいかという気にもなる。内容にストーリーが厳然とあるだけに、少々韜晦にすぎるという印象である。
ただ、それでもなお作品としては、非常に魅力的であることは確かである。リアルな実態のない雰囲気の中で見える怪異はやはり幻想的であり、ある種の美しさを持っている。時計台の影の先に見える人のシルエットは、まさに美的な風景に思える。一言でいってしまえば、歪さ故のインパクトを持った作品というところで落ち着きそうな具合である。


『水恋鳥』
一種の因果応報譚であり、もの悲しい印象を湛えた詩的な作品である。とりわけいびり殺されたにもかかわらず、なおその殺した側の息子の無事を願う母親の存在なくしては、この作品の詩情は成立し得ないと思う。たぶん息子は死んだ直後に罪を負って鳥に転生したがために、自らの罪を自覚することはない。しかし先に亡くなった母親は言い伝えを信じて、死んでしまう息子のために成仏できずに彷徨う。この言いしれぬ二人の関係がこれから先も延々と続くのであろうと予測できるからこそ、この物語は悲しいのである。
死んだ母親が息子を思って現世に現れるという部分も怪異としては興味あるところであるが、やはり何をおいてもこの不幸な親子の境遇に重きが置かれている点を評価したいと思う。そしてその哀調を増幅させるのが、老婆の霊の繰り言のように使われる「もおらしい」という方言であり、また「くれてやりぃ」という反復的な言葉である。これと同時に、連分けされたような文章構成によって、韻文的なリリカルさを前面に押し出したように捉えることができるだろう。いわゆる“伝承悲話”のコンセプトを使いこなして叙情的な作品仕上げたところは、何とも巧いと言わねばなるまい。


『未練の檻』
女性の嫉妬や怨念というものは本当に怖い。だがその強い念を言葉に表現することはかなり難しいのではないかと思ったりする(自分自身が男性であるということもあるが、それ以前に複合的な情念の発露であるが故に、説明すればするほどより説得力を失いそうな、という印象がある)。この作品もその分野への挑戦であるが、やはり弱いという感想である。
こぼれた血が小さな金魚となり、その金魚を嫉妬の対象として掴み押し込めてしまうというシチュエーションは、それほど突飛な発想ではなく、ややもすれば凡庸な手法と取られかねない。そして一番良くないのは、その幻想的な情景が主人公の情念を的確に表現しているのではなく、結局前半部分での中途半端な説明だけが彼女の念の強さを訴えているようにしか見えないのである(特に第2段落の説明は、第1段落のボタンの表現でかなり状況は分かっていただけに、不要ではなかったかと感じる)。やはり800字という限られた文字数で、全ての前提状況を表すことは難しいように思う。もっと金魚のイメージとそれに対する主人公の目線(これも説明ではなく行動描写で)にふくらみがあれば、そこから透かし見るだけで、十分念の強さが滲み出たのではないかと思ったりもする。言葉で言い尽くせない強いものであるからこそ、寓意に力点を置いて欲しかったというところである。


『深夜の騒音』
第一印象として、果たしてこれが怪異と認められるのかという疑問が湧いた。状況としてはバイクの騒音がいつまでも響き、たまたま目撃したバイクに不審なものがあったという程度である。確かに、向かいのマンションの上の階の住人などごく少数の者だけがその存在に気付いたかのようにカーテンを開けて道路を見るというシーンがあるが、それがライダー自身が霊体のような存在であるという確証になるのには少々弱い気もする(音に気付いても外を必ず見るかといえば、それはやはり確率の問題でしかないだろう)。要するに、このライダーがあやかしのものであるという決定打に欠けるのである。
そうなってくると、単なる迷惑な深夜のバイクの話という、非常につまらないものになってしまう訳である。とにかくバイクがこの世のものではないという根拠が非常に薄く(バイクの描写があまりにも普通すぎる)、また目撃者自身が禍々しいものを見てしまったという雰囲気になっていない(寝床を替えるという行動はあるものの、騒音を気にしただけと受け取れる)のが致命的と言えるだろう。その部分のいずれかがしっかりと書かれていたら、それなりに不気味な印象を出すことが出来たと思う。日常生活の中にかいま見る異常というのは、ほんのりとだけでは足りない場合も往々にしてあるということである。


『赤地蔵』
なかなかの秀作。まず題材と文体が古典調で一致しており、非常にどっしりとした印象が強い。その中にあって恐怖の肝と言うべき、地蔵が若様を食う場面の描写は圧巻であるだろう。グロに徹した文調ではないが、的確な描写故に気持ちの悪さは格別である。この辺りは古典調といえども、やはり現代怪談の洗礼を受けていると感じた。
あと秀逸なのは、地蔵と若様というベビーフェイスな存在が、凄惨な修羅場を繰り広げるというコンセプトである。特に地蔵が子供を飲み込んで食い殺す、子供がとんでもない呪詛を吐いて絶命するという発想は強烈である。これだけで最早お腹一杯と言ってもおかしくない。たたずむ石の地蔵に対して時折感じる、何かしらの不気味さを極限まで拡大させたと言えるだろう。
ただ惜しむらくは、最後の3行の後日談の部分。地蔵と若様の壮絶な闘いを惜しげもなく披露した後に、どちらが災いの元凶であったのかという問いかけをするのは野暮である。ただ単に御家はその後滅びた旨の記述さえあれば、この修羅場が何を意味していたのか理解できるだろうし、それを確認出来ればどちらがどうこう詮索することはまさに蛇足であるだろう。致命的な問題にはならないが、やや画竜点睛に欠くという感は否めない。


『石がものいう話』
まさに【志怪小説】を換骨奪胎したと言える佳作。長期間web上で公開され、また名だたる選者のめがねにかなったというのであるから、どこかに類話の元ネタがあるという確率はゼロに近いのだろう。そういう疑念を起こしかねないほど、良くできた作品である。
たとえば「周氏、愚かなり!」というセリフなどは、却って不自然な日本語であるがために漢文を翻訳したかのように感じる訳で、このあたりのディテールの巧さはこの手の内容に精通し、自家薬籠中の物にしているという印象が強い。
こういう百人百様を目指す傑作集であれば、やはりこういうタイプの怪談が掲載されることは喜ばしい限りであると思うし、実際それが実現していることは、この本の質の高さを示しているものであると言える。
門外の事柄をあまりに語ると馬脚があらわれそうなので、これにて。


『阿吽の衝突』
実にほのぼのとした怪異譚である。やはり狛犬がガツンと頭突きあいしているという光景が、不思議でありながら怖さに直結しない要因であると言えるだろう。狛犬などの石像物が喋るという話は記憶にあるのだが、ここまで派手にやっても創作としては何の違和感もない。むしろこのぐらいでちょうど適当という感じである。
また最後にある母親のコメントであるが、これもまた何とも言えないとぼけた味が出て、作品自体の雰囲気をコントロールしていると思う。これがもし実話怪談であれば、当然このような怪異に対する解釈は御法度になるのであるが(つまり、完全“主観”の意見は排除されるべきという暗黙のルールである)、創作ではこういう言動が作者の意図を反映する内容として許容されていると認識する。またこの母親の解釈が唐突なものではなく、冒頭部分の神社の廃れぶりと相まって妙に納得させられるところがとても良い。
至って地味な怪異ではあるが、その分非常によく練られた話であると思う。タイトルも含めて、良作である。


『石に潜む』
石の中に水と共に龍やら魚やらがいるという奇石にまつわる話である。そういう石を怪異に織り交ぜてストーリーを作るというのは面白い着想であると思うのだが、如何せん、荒っぽい展開のために、それらの不思議な石の持つ魅力というものが生かし切れていないように感じる。石に関する描写もはっきりせず、ただ説明だけでは、それらを登場させた意味があまりないだろう。特に最後の「魚は生、鳥は死…」というセリフの根拠が全く示されておらず、単なる辻褄合わせとも取られかねないようなクロージングになっている。これでは折角の石の存在価値も薄れてしまうばかりである。
結局のところ、800字という字数に対して言葉が上手く出し入れが出来ていないという印象である。冒頭の滑落に至る部分、最初の石の発見部分、謎の老人とのやりとり部分、そして結末と4つの区分をすれば、そのバランスの悪さが明瞭になるだろう。前半の丁寧な運びに対して、後半はかなりかいつまんで話が展開しているようにしか見えない。意図的にそのような構成にしたとしても、どうしても頭でっかちな書きぶりは悪い印象に繋がる。字数制限が条件のものであれば、なおさらである。しかも短い文章あるほど、アラが見つかると評価が極端に低くなる。ちょっとした綻びではあるが、厳しくならざるを得ない部分があるということで。