『てのひら怪談 2』作品評の四

『鬼女の啼く夜』
実話怪談ではお目にかかることの出来ない“近親相姦”ネタである(あればあったでマズすぎる)。一気に情欲の虜となってしまう心理描写はかなり嫌なものを感じさせ、良い意味での異常な歪みっぷりになっていると思う。
怪異の中心である鬼女の存在であるが、2つの解釈が成立すると思う。一つは記述内容から汲み取れる“兄自身に鬼女が取り憑いた”と考えるケース。鬼女の夢を見た後で鬼畜の所行をやってしまうわけなので、明らかに何か“魔が差した”としか言いようのない事態が起こったものであると推測できるであろう。しかしこれだけでは“鬼女=女の鬼”という概念が弱くなる。そこで考えられる第二のケースがある。それが“陵辱された妹が鬼女となる”である。
何の前触れもなくいきなり兄に犯された妹である。その絶望感・陵辱感によって彼女自身が怒りや呪いの念に駆り立てられる可能性は十分ある。鬼女の再生はその瞬間に成り立つのではないだろうか。そしてこのように想像をすることによって、兄の夢に登場した鬼女が“腹這いに拘束された”というくだりが俄然意味を持ってくるのではないだろうか(そうなると“日本刀を切り下ろした”巫女は兄ということになるのであるが)。夢の部分はストーリーの中で浮いてしまった(構成面でも文体面でも)存在なのであるが、こう解釈することで、ある程度有機的に取り込まれると考えられる。もしかすると鬼女の怨念は最初に兄に取り憑き、妹に精を放つことによって妹の身に取り憑いたのでは…。いや、その時に妹に宿された娘が……。あくまで個人的な読み方且つあまりにも鬼畜な発想なので、積極的に主張するものではないが。


『生まれ変わったら』
展開から考えると“落語怪談”以上にショートショートに形式に近い作品ではないだろうか。予定調和というよりも、かなり突拍子もないようなオチ(ただし全く予測もつかないという意味ではない)を用意して、きれいにまとめてきていると言える。最後の1行などは、なるほどと膝をポンと叩くと同時に、何か滑稽であり且つ哀れさを醸し出しているようにも感じる。
ただ専門的な見地に立って苦言を呈すると、教誨師になるほどの僧侶が、ここで語られるケースのような輪廻転生を肯定するということは、余程のことがない限りあり得ない。また輪廻として語られる六道世界の認識では、人を殺した場合は決して“畜生道”(言うまでもなくオチの伏線故の提示であることは理解できるが)に落ちることはなく、地獄道に堕ちるのである。少々些末なことと受け取られるかもしれないが、やはりその筋の専門的な基本事項を誤用するのはどうかと思う。


『禍犬様』
非常によく練られた、無駄な贅肉を殆どそぎ落としたような展開が印象的である。また伝承的な土俗信仰を巧みに取り入れながら今日的な問題を扱っている点も、この作品の魅力である。
頭人身の怪物と人頭獣身の怪物という、いわば二種類のステレオタイプの形体のものを用意し、それらが近親者に対して見せた行為を通して作者が訴えかけてくる“心”の問題は痛烈である。本来ならば獣の頭をしたものの方が凶暴であり、人間の頭を持った方が理知的であるという常識を覆し、全く逆の結末を提示することで“捨てられていくこと”への悲しみや怒りを表現しているのだと推察する。どのような過程で犬と老婆が融合と分離という現象を引き起こしたのかはわからないが、思慕と怨恨の気持ちだけは間違いなく関係者に伝えられたことになるわけである。この二体の怪物の容姿の底に潜む感情を汲み取ることで、単なる怪異のストーリー以上の悲劇を読みとることはそう難しいものではないだろう。
また“聖域”の存在がこの作品のキーポイントになっている。怪異の発端であるという点だけではなく、このような負のエリアを“聖域”と呼び慣わしている事実にこそ、忌まわしい記憶が堆積されているように感じる。またこの惨劇の直後に公式に閉鎖を宣言されるのであるが、この場所が単に老犬を捨てる場所だけではないという認識を多くの村人が持っていた証左であり、今回の事件が起こるべくして起こったということを暗示しているように思えてならない。


『連子窓』
ビジュアル的なイメージが言葉によってスムーズに入って来るという感じの好作品。特に前半の色彩を表した言葉が次々と登場する部分で、その印象が決定的になっていると思う。また連子窓をはじめとする小道具がいかにも粋な彩りを添えており、江戸情緒と言うべき雰囲気を作り出している。河鍋暁斎(実は猫の絵と言えば師匠にあたる国芳の方が有名なのだが)という名前や、ラストに登場するだまし絵風の猫の姿など、作者自身が美術知識に精通しており、その知識を駆使して情景を構築しているように受け取っている。そしてこのようなお膳立ての中に入ってくる怪異が“化け猫”といういかにも古典的な妖怪であるから、まさに作者が作り出す世界が調和に満ちあふれている印象になる。
更につけ加えるならば、夢と現実とがほとんど途切れることなく連続的に繋がって展開しているところが、この作品の美しさに結びついていると言える。展開上どうしても夢オチでは面白味がなくなるし、かといって完全に夢うつつという状態でも物足りなさを感じてしまう。夢と現実とが分断されながらも連続しているところに怪異の妙味があると言えるだろう。巧みに作られた高レベルの怪談である。


『猫爺』
猫の持っている魔性の部分を存分に書いた作品。最初は単なる変な爺さんにまつわる話と思わせておきながら、さらに妖怪っぽい部分を展開させながら、最後の2行でいきなり強烈な怪異を見せつけることに成功している。特に最後の“爺さんがもうこの世にいないもの”であることの確信は、まさに魔性の猫たちによって取り殺された(あるいは食い殺された?)ことを示唆している。まさにこの瞬間、単なる猫の奇譚であったストーリーが古典的な“化け猫話”に変化するのである。(つけ加えるならば、前半に死んでいるはずの爺さんが町を徘徊しているのであるから、幽霊譚としても成立することになる訳だ)
スト2行による鮮やかな展開ぶりもさることながら、途中の猫の嬌態もなかなか興味深い描写であると思う。上の話でもそうなのだが、どうも猫は狐狸と比べて化けるのが下手みたいである。その変化の部分をシルエットを通してみせる部分も、かなり古典的な手法であると思う。現代風の不思議な話のように見えるが、結構古典的な約束事を踏襲しており、それがストーリーの安定ぶりにも影響しているように思う。


『お花さん』
鶏に取り憑かれて妖怪と化した婆さんの話と言うべきか。とにかく「生」に密着したクラクラするほど生々しい描写が印象的である。作者のプロフィールを拝見すると、鶏の解体の場面などは実体験として目撃している可能性は高いだろうし、そういう点ではリアリティーに溢れていて当然であろう(それを的確に表現できる筆力は必須であるが)。またそのような生き物の生き死にの描写を通して、老女お花さんの逞しい生命力の強さが浮き彫りにされていく。そしてある意味圧巻とも言うべきエロティックな光景が繰り広げられる。おそらく萎びた乳房をむき出しにして、恍惚の表情を見せているのであろう。その姿を想像するに、まさしく“安達ヶ原の鬼婆”を筆頭とする山姥の末裔を彷彿とさせてくれる。ただしお花さんは鶏の化身であるが故に、人間ではなく同族をバラしてその内臓を美味そうに喰らうだけなのであるが…。
個人的な印象として、鶏が目蓋を閉じて目を細める表情は、本当に恍惚感に浸りきっているように見えて仕方がない。もしかすると作者も同じ印象から着想を得ているのではないかとも推測している。ただこれだけ豊かなイマジネーションを掻き立てる作品であるのに、なぜか最後の1行に“お花さんは鶏だったんだ”の一言が。こんなダイレクトな謎解きをしなくても、殆どの読者が十分その正体を掴み取れるはずである。折角の余韻を潰してしまうような、蛇足な一文であると思う。


『首』
個人的な見解であるが、動物霊とは反自然的な死を迎えた動物だけがなれるものであると思う。愛玩動物として人間と共に暮らした期間の長い動物、あるいは人間によって虐待された上に惨殺された動物などである。逆に自然的な死、一つに他の動物のエサとして殺されてしまった動物は、自然の因果律の中で死んだために、浄化されない霊としてこの世に残ることはない。ライオンに食われたヌーの亡霊は現れないし、最初から食料として飼われた家畜は屠殺されても化けてこない。もし仮に食料として食われた動物が呪い祟りだしたら、それこそ弱肉強食の自然界の摂理が崩壊してしまうだろう。
前置きが長くなったが、ウサギが祟るという着想は面白いものがあるが、鍋で煮られた動物が祟るということは、個人的見解では実話怪談としてあり得ないことである。しかしながら、ウサギという、普段食料として認識することがない動物であるが故に、この創作怪談は成立していると言える(国内でも秋田県ではウサギが食肉として流通していると聞くが)。ウサギの持っているキャラクター的イメージが作り上げた怪談であると言える訳である。これが端的に現れるのが、ウサギが人語を話す場面である。不気味でありながら、何かのほほんとした印象こそが、寓話に登場するウサギそのもののイメージなのである。多分この作品はここあたりから構築されたのではないかと推察する。
ただし首に残された赤い筋にまつわるオチは、やや凡庸の感を免れない。特に一旦怪異を夢オチと見せておいてからの展開は常套手段であり、ウサギの怪という奇抜な発想を平凡な怪談話に矮小化させているという印象すらある。むしろウサギだけで話を収束させてしまった方が、インパクトが強いままで終わったのではないだろうか。


『ネパールの宿』
“実話怪談”の範疇に入る作品とみなすべき内容である。だが、内容としては非常に凡庸なものという認識である。やはり“実話”である以上、書き表されている怪異がもっと濃密な描写で彩られていないと、現在の実話怪談のレベルでは到底太刀打ちできないだろう。この作品のようなストレートな説明だけの表記では、昭和時代であればいざ知らず、実話怪談を取り巻く環境から考えれば、恐ろしいまでに稚拙と言わざるを得ない。
翻ってこれを創作とみなしても、事態は変わらない。やはり“壁から手が出てきて足を掴む”程度の描写ではリアルという観点からしても弱い印象であるし、かといって体験者(主人公)の感情が精緻に書かれているという訳でもない。淡々と事実(ただし詳細なレポートではない)が展開するだけで、平板な印象しか残らない。特に単独でこういう内容の作品を見た場合はなおさら、弱さを感じてしまうことになる。連作で次々とこういう雰囲気の文内容で綴られていればまた話は変わる可能性もあるが、このような提示のされ方をすると苦しい印象は否めないだろう。ネパールで起こった話ということだけが売りと言えば売りなのであるが。


『山鳴る里』
初読後の印象は“映画の予告編”であった。作品の構成としては、主人公の帰郷と感慨、祖母から聞いた故郷の伝承、山鳴りする土地の様子…そして何かが始まろうとする雰囲気、の3つの部分から成る。ところがこの3つのばらけた部分が有機的に結びつかない。全く関連性のないことが書かれているわけではないが、密接に繋がって展開されているようには全く見えない。言うならば、ストーリーのピースが断片的に並べられただけという印象である。だから“映画の予告編”という感想しか出てこなかった。
また内容的にも、ここに書かれた事柄だけで全てが完結しておらず、むしろさわりだけを紹介されたという気分である。内容があまりにも含蓄が多くて、そこに隠されたものが大量にあるということでは決してない。逆に思わせぶりな言葉だけが配置され、何かがあるという雰囲気だけを見せて終わったという感じである。雰囲気先行の作品であれば、それだけ言葉に厚みを持たさなければ読者を惹き付けるものがないということなのであろう。


『蚊帳の外』
一番気になったのは、やはり“仮名遣い”である。思想的背景を持ってこの表記法を一貫して使用する著作家もいるわけで、あまりカリカリして見ることはあまりないのであるが、ただ不特定多数の読者に読んでもらうことを前提に考えた場合は、そのデメリットを覚悟しなければならないと思う。特に“怪談”というエンターテイメントに近いジャンルでわざわざ使うには、相当な覚悟が必要だと感じる。
この作品の場合“土佐の山村”を舞台にしており、民俗学の研究ということで赴いた主人公の体験談である。シチュエーションとしては、旧仮名遣いの表記で書かれたストーリーであっても“場違い”という印象を持つところではない。むしろ最初は、大正から昭和初期に時代設定しているのではないかという印象すら持った。しかしながら、途中で蚊帳のエピソードが出てきたところで、少なくとも戦後の高度成長期以降の話であると感じた。つまり旧仮名遣いに違和感を覚える時代である。仮に“子供の頃に蚊帳を吊る習慣があったが、今では滅多と見ない”という記述さえなければ、それなりに旧仮名遣いの雰囲気に呑まれて面白く読めたように思う。
怪異自体ははっきり言って平凡の極みであるが、そこに至るまでの展開を楽しむことが出来れば良いような作品であると思う。それだけに引っかかる部分があったことは、残念である。“旧仮名遣い”という折角の仕掛けも少々不発気味に感じてしまった。