『てのひら怪談 2』作品評の五

『仮通夜』
相当ベタなオチで締めくくられた作品であるが、なぜかギクリとさせられてしまった。いわゆる“お迎えに来る”死霊のことばかり気を取られすぎていたためだと思うのだが、完全に引っかかってしまった。まさか死霊そのものが、ストーリーのオチにとってのフェイクだったとは…
再読してみると、良い意味でミスリードを引き起こさせるための仕掛けがかなりあることに気付いた。というよりも、最後のオチ以外は完全に読者の目を“お迎え”に集中させるように巧みにリードしている。特に実話怪談で言えば、このような展開になれば間違いなく外の死霊の方が怪異のメインとなるという思い込みがあるために、なおさら見事に引っかかってしまったようだ。
オチに関して言えば、これは完全に“落語怪談”のノリである。祖母が何も言わず背後に突っ立ってニヤリと嗤う場面であれば、それはそれで強烈な怪異譚となるのであるが、きっちりと種明かしを喋ってくれたということで笑いに転換できている。良くできた落とし方であると思う。


『通夜』
一人称の目線で展開させることによって、表面上に現れてこない事実を浮かび上がらせてくることに成功した傑作。最初は本当にさらりと読んだのであるが、途中の展開で引っかかるものを感じて、再読してみてようやく隠された真実に行き当たった。婆ちゃんをはじめ親戚一同が自分に向かって謝りだすという、この微妙な違和感が絶妙なのである。
皆が自分に向かって謝りだすという奇妙な行為を表層的に読んでも、実はこの作品は怪異として成立する。何か不条理で変なことが起こっているということは、誰の目から見ても明らかだからである。しかし一旦ここで引っかかりを感じて更にその原因を探ると、裏に隠れた真実が出てくる。一人称で書かれた意図が明確になるわけである。
しかもこの作品のレベルの高さは、主人公が死者であることを認識すると、ごく普通だった情景が一変するところである。最初に1行にある“布団の下から騒ぎ声”などは比喩でも何でもなく、本当に主人公が彼らの上にいたことを意味することになるだろう。さらに主人公がたたずむ階段も、襖から漏れる光も実は最初からそんなものはなく(タイトル通り“通夜”の席であれば、居間に遺体があるはずである)、死者から見た現世との微かな繋がりの比喩である可能性すらある。解釈が二段構造になっており、それぞれの次元で独自の読み方が成立している。この作品集の中でも屈指の技巧と言えるだろう。


『大好きな彼女と一心同体になる方法』
主人公である男に対して嫌悪感を抱いたのであれば、この作品の意図は十分伝えられたのではないかと思う。それほどこの男のキャラクターの造形は秀逸であると思うし、百人の人がいれば百人とも、この男に対して蛇蝎に接するような気持ち悪さを感じたであろう。それほど際立った個性が作り上げられている。死んだ彼女の霊が見えるという怪異よりも、むしろ常軌を逸した男の執着ぶりの方に恐怖感を感じる作品である。
死んだ者の魂が物質化して葬儀の場に現れるケースはままあるが、これほど可愛らしい登場の仕方はないと思う。それだけに男の行為は読んでいて鳥肌が立つような気持ち悪さであり、彼女の霊に対して同情に似た哀れさすら感じる。そしてそのような純粋な彼女の魂をすすり呑むように喰らうのである。それに対して彼女は恨みの念を爆発させるように眼前に現れる。それでも男は全く意に介することもないように、満足げにストーリーを締め括る。“一身同体”にはなれたかもしれないが、“一心同体”にまではなっていないのでは、いや、なっていて欲しくないという気持ちで一杯になってしまった。人間の尽きない欲望の方がそら恐ろしいという印象を与える怪作である。


『いのち』
実話怪談の次元でいえば、平凡な内容で構成されている作品と言えるだろう。作品に登場するかたまりは、まさしく死にゆくものの魂が肉体からはみ出したオーラのようなものであると推測できるだろう。実際に、生き物の死を読みとる能力を持つ人間が、死にかけたものがこのようなオーラ状の光を放っているところを見ることがある。それ故に、このような話を創作として読んだとしても、着想が素晴らしいとかいう印象は全くない。それよりもまさに“事実は小説よりも奇なり”という格言の方が先に浮かんでくる。
強いて挙げるならば、実話怪談よりも主人公の心の微妙な動きが的確であり、そこに何かしらの感慨というものを感じることは出来るだろう。しかしそれも強烈な印象にはならず、表面的な美しさばかりの、全体的に中途半端なストーリーに終わってしまったと思う。怪談、特に創作怪談としては一捻りも二捻りも工夫が必要であると思う。
さらに重箱の隅をつつくようになるが、冒頭に“それを数年ぶりに見た”としながら、最終段落で“十数年の時が過ぎ”ても“一度も見つからなかった”とあるのは、ちょっと矛盾では…。800字という短さで、このようなエラーが出るのは厳しい。


『弔夜』
作者の意図がどのようなところにあるかは分からないが、個人的には、ビジュアル先行の現代の妖怪世界に対する強烈なアンチテーゼが含まれていると感じている。
主人公である“闇沼”であるが、ストーリーの中で相当な存在感を示しているのであるが、そのすべてについてのビジュアル的な形容が殆どないと言ってよい。行動などに関する説明もあることはあるが、結局のところ、“闇沼”とは何かということに直接繋がるヒントは皆無に近い。本来ならば何か別の言葉による定義づけもあってしかるべきなのであるが、その部分が全て“闇沼”という言葉によって覆い尽くされている感が強い。マンガで例えるならば、容姿を表現したイラストがあるべき場所に“闇沼”という言葉だけが躍っているという感である。ビジュアルによる表現だけに頼り切っている昨今の妖怪に比べれば無骨ではあるが、読者の想像力を掻き立てるという点では、圧倒的に勝っていると言えるだろう。
というよりも、この一見取り留めのないストーリーそのものから、漠然と“闇沼”をイメージすることが正しい読み方なのかもしれない。ぶっきらぼうな書き方にも見えるが、非常に饒舌な語り口で“闇沼”以外のキャラクターは生き生きと活写されている。彼らとの関わりから浮かび上がってくる“闇沼”こそが本当の姿、本質ではないかとも思ったりする。もっと大胆なことを言えば、このストーリー自体が“闇沼”なのではとも想像したりもする。とにかく色々な意味でイマジネーションを掻き立てられる好作品である。


『散歩にうってつけの夕べ』
軽いノリの短文を駆使して、祭りの賑わいやそこでのお気楽な満足感に浸っている主人公の様子が巧みに語られている。この調子のよい文章が曲者で、最後に畳みかけてくる怪異の連続とのギャップを見事に引き出していると思う。構成としては単純明快のレベルであるし、金を拾う場面(これが二千円札であるところが心憎い)や、不思議な場所での祭りの風景からして、異界に踏み込んだあるいは狐狸に化かされたという印象が最初からあった。それでも面白く読めたのは、ひとえにこの文章の軽快さであったと言える。
ただ金魚や手袋の正体が現れてくる場面であるが、軽い悪戯なのか、それともグロテスクな異様さなのか、どちらにスタンスを置いた視点で作者が書こうとしているのか分かりづらいアイテムだったように思う。悪戯程度であればうさぎの死体はきついようにも感じるし、もっとどぎつい暗転であれば“死体”よりももっとグロな表現もあったように思う。そのあたりの匙加減が曖昧だったのではないだろうか。
そして最後の一文も、個人的には蛇足に見えた。5メートルもある磨崖仏が動き出すというのは他の怪異と比べてもスケールが大きすぎて、ややシュールな印象を受けた。このあたりも、愉しげな祭りとの対比においてリアル(陰鬱なぐらいのギャップ)とシュール(最後までブッ飛んだおかしみ)のシチュエーションのどちらを採用するのかがはっきりせず、前半の軽快なすっきり感が半減してしまったようにも感じた。


『影を求めて』
初読の際から、このストーリーの主人公を生身の人間ではないと思いながら読んでいった。まずもって生身の人間に対して“散策子”などという呼び名を使うことはあり得ないという判断である。もし仮に“散策子”が普通の人間であるとして読んだならば、夢破れて故郷に戻った者が気の迷いから幻を見たというだけの、本当に些細な怪異だけで終わってしまっただろう。
霊の世界は四次元であり、四次元世界とは、同一空間内に多層的な時間軸が存在していると想像されるものである。即ち、同じ場所に同時に過去・現在・未来などの多種多様な光景が展開される状態である。この物語で言えば、“散策子”がさまよい歩く世界とは全く異なる時間の、同じ場所で過去に起こった光景が、目の前に出現しても何ら不思議ではない世界である。そして死んだ者であれば当然この時間軸を自由に行き来することが出来るはずなのであるが、結局死んだ者同士であるにもかかわらず一方だけが気付いただけで、結局再会を果たすことすら出来ないのである。死してなお邂逅することすら叶わない、そのように解釈すると、この作品はとてつもなく切ない気分にさせてくれる。
作品としてみた場合、どうも説明過多になっているようで、のめり込みにくい文章だという印象を受けた。特に冒頭の町の様子を表した部分などは細々しすぎて(そのくせストーリーには殆ど関係しない)、読者を選んでしまう悪い要因になっているように感じた。硬質な文体は良いのだが、やりすぎはあまり感心できないというところである。


『不思議なこと』
人の記憶というものは、断片的であるほど懐かしさを感じさせてくれるものだ。それが幼い時の記憶であれば、一層そういう気持ちが強くなる。この作品は、そのような感傷に狙い澄ましたようにぶつけてきたという印象である。
小道具などから推測すると、××山(このネーミングだけは断片的記憶の結晶にとってマイナスである)は古墳ではないだろうか。しかも鏡が出土するという設定なので、かなりの権力者が葬られた場所であろう。大人の感覚から言えばそのような解釈を立ててしまいがちなのであるが、子供の記憶に徹してただ祖母が優しく教えてくれた事実だけが展開する。謎が謎としてだけ残り、それ以上言及させないところにこの作品の意図があり、それが的確にノスタルジーのツボを押さえることに成功している。おそらく謎の内容がもっと陳腐で且つ些細なものであったならば、ここまでの感動は得られなかったかもしれない。
怪異が起こっているから“怪談”として成立しているとは思うが、それよりも自分自身の過去を振り返って優しい気分にさせてくれるところにこの作品の価値があると思う。


『狐火を追うもの』
冒頭からいきなり怪異が発生、どのような展開になるのかかなり面白く読んだ。主人公の感覚から状況を読みとることが多く、特に狐火の認識から解釈までの直感的な想像の部分は断定的でもなく幻想的でもなく、好奇心を持ったまま素直に怪異にのめり込むきっかけとなったように感じる。実話怪談であればこの部分は徹底的に怪異を描写すること(主観を交えずに“あったること”を書き綴る)で切り抜ける場合が多いのであるが、体験者の心理描写でここまで状況を展開させる発想は、個人的には斬新という印象である。却って主人公の目線で語られる怪異であるからこそ、後半の展開が非常に新鮮に感じることになったのだと思う。狐火から少女の怪異へと移る飛躍は、少年の心の動きがぶれない軸となっており、非常に自然である。そして少女を抱きしめて止めようとする場面は、実にドキドキしながら読んだ。
ただし最後の1行で大きく印象が変わってしまった。少女の正体が人形であったというところまでは納得できるが、“血を流したひびだらけの”という描写が果たして必要だったかどうかと問われると、かなり厳しい意見とならざるを得ない。ここまで少年のみずみずしい感性を貫きながら、最後になって淡い少年の恋心を打ち砕くのはどうであろうか。ベタかもしれないが、抱きしめたはずの少女が陽炎のように消えていく方が予定調和的だったようにも思う。
意地悪な見方であるが、作者は“怪談=怖いもの”という先入観から最後の1行を挿入してしまったのではないだろうか。狐火とそれに付き従う少女だけで十分怪異を認識してしまった者からすれば、“血”はどぎつすぎる。前半から感覚的に共鳴していただけに、ちょっとギャップを感じてしまった次第である。


『夏の終わりに』
読み始めていくとどんどん怪異から離れていくような感覚に陥った。前半はまさに純然たる小説。しかも真夏の情景がこれでもかと書かれ、まるで映画のワンシーンを彷彿とさせる。怪談として読んでいる方からすれば、いつになったら怪異が始まるのだという焦燥感も手伝って、ジリジリしながら読んでいった。
そして怪異は突然、突拍子もないような姿を見せる。真夏なのに“真っ黒なコート”を着た謎の人物はお約束のようなものであるが、その登場の仕方が劇的なために却って違和感がない。そして怪異の圧巻は大量の“蝉の死骸”。爽やかな純小説風の場面が一転して、何かしら禍々しいものを感じさせる光景に変わる。だが作者はここでもう一捻りを加えて、状況を元に戻す。この謎の大男が言い放つ「また来年な」は、思わずハッとさせられた。こんな鮮やかな転換はないだろうというほど効果的なセリフである。同じ光景、連続する時間であるにもかかわらず、男の退場と共に世界が一変する。あの大男はおそらく“季節をつかさどる”妖精ではなかったのだろうかと思わせるほど、清々しい気分にさせられた。自転車で疾走していくのも、何となく納得がいった。
わずか800字の制限の中でめまぐるしく変化する状況には驚かされた。そしてその変転が実に小気味よく、しかも突発的な怪異を挟んで見事なぐらい有機的に結びついているところに唸らされた。創作怪談としても類を見ない、季節感と怪異をマッチングさせるという着想の素晴らしさに脱帽の傑作である。