『てのひら怪談 2』作品評の六

グラマンの怪』
結論から言うと、この作品は怪談ではない。戦争体験という貴重な内容であるが、恐怖という次元で言えば交通事故で九死に一生を得たという内容と同等であり、その事故を免れた原因などに超常現象的なものがない限り、怪を語る作品とみなさない方が良いという意見である。残念ながらこの作品には、機銃掃射に対する“虫の知らせ”というべき予兆もなければ、そこから“先祖が守った”というような記述もない。怪異らしきものがあるならば、グラマンの操縦者の顔が見えたこと、そしてその時の記憶が曖昧なものになってしまっているということになるだろう。だが、前者については、なぜか「顔がはっきり見えた」という複数の証言があり(かの『現代民話考』にもあり)、逆に個人の怪異体験と判断する材料にならないと思う。そして後者についても、事件や事故の衝撃の強さによって一時的に記憶が途切れる場合もあるため、それに近い状態にあったと推測される。
ここまで批判を展開してきたわけであるが、これはこの作品を貶めるための理由付けではない。むしろこのような明瞭な戦争の記憶を、曖昧然とした“怪談”のレベルで語ることに反対という意思表示である。作者にとっては定かでない記憶なのかもしれないが、戦争体験のない者からすればやはりれっきとした“証言”である。実際に、どうしても常識だけでは割り切れない“戦争怪談”が存在するのも事実であるが、ここに書かれた記録が本当に作者の体験として起こっているのであれば、より説得力を持つであろう“戦争証言”として公開すべきだったように感じる。
また最後に登場する“広島・長崎”という言葉に思想的な背景を感じてしまったために、この点でも“怪談”の体裁にはそぐわないという印象を持ってしまった。怪談に世相を持ち込むことには賛成であるが、思想、特に政治的な意図を多分に含んだ内容を持ち込んでくるのは、個人的にはどうしても受けつけないところである(あくまで個人の嗜好であるので勘弁願いたい)。


『カツジ君』
戦争を一つのキーワードとして謎解きをやっているのであるが、それぞれのキャラ(生者も死者も)があまりにも暢気なために、悲壮さや悲惨さといったものが微塵もない。そのせいであろうか、最後の1行の“南の異国の島”という記述が相当浮いてしまっている感がある。特に戦争の悲惨さを描いた作品の直後に読まされると、何か空しさまで漂ってしまうほどの脳天気なラスト1行の書きぶりである。
だが一皮むくと、やはりそこには戦争の傷跡とも言えるだろう悲しい事実があり、また祖母の二重の悲しみが見えてくる。その要素があるからこそ、単なる笑いだけで終わらない作品に仕上がっていると思う。言うなれば“人情怪談話”とでもたとえるべきかもしれない。
ただし心霊現象的に言うと、訪問する霊が全てを納得して立ち帰る場面であるが、あれはやりすぎという感が強い。事情が分からないまま死んでしまった霊は、生前と同じ行動を繰り返しておこなうことが多い。その行動に対する強烈な念が残ってしまったためであり、その行動以外のことは一切気付くことがないと解釈される。だから自分の行動に対する矛盾が指摘されると、困惑して消えてしまうというパターンが圧倒的に多い。この作品にあるように、全ての内容を理解して満足げに立ち去ってしまうような状態になることはないと思う(ここまで人間同様に思考する自我として成立できる霊体は、余程の強烈な念を持つ悪霊や怨霊などに限られる。大概の霊体はある一つの事柄に執着して固定された思考しかできないか、さもなくばほとんど自意識を持たないかというのが定説である)。
ただしこの作品で言えば、納得してあの世へ行ってもらいたいという気持ちの方が強くなるのが人情というものである。何となくいい作品である。


『町俤』
非常に読み解きが難しい作品である。町そのものが念を持って出現していると言えるだろう(実は白髪の男性も単独で現れた幻ではなく、町の情景とこみになって現れた、いわば物言わぬ町の代弁者とみなしていいかもしれない)怪談だという認識なのであるが、その目的が定かではない。怪異が出現する明瞭な目的意志を持っていながら、それを体験した主人公にはそれを体験するべき理由が見あたらないのである。単に気が向いて観光に来た者に対してランダムに幻を見せて訴えているとしか見えないために、強いメッセージ性が上滑りしているという印象があるわけである。
さらに“古い町並み”という言葉がくせものである。観光スポットになっていることがわかるが、その事実は町並みが空襲によって破壊されていないことを示している。ならば、その町並みが語る“戻らない風景”とはいったい何なのか。矛盾とまではいかないが、展開における整合性においてさらなる説明が必要なのではないかと感じた。
ただ仮に、この“古い町並み”が戦後復興期から高度経済成長期までの時代の建造物群を指しているのであれば、上記の問題はほぼ氷解するのではないかと推理する。そうなってくると、ラスト2行に書かれた“薄汚い町”とは実は“古い町並み”そのものであるという解釈が成立する。そしてこの作品に対する印象も大きく変化してしまうのである。
結局のところ、懐古趣味に走っている感が強いと目される作品でありながら、解釈次第ではその懐古趣味を真っ向否定しているようにも取れるわけで、それを確定させるだけの記述がないので「何とも難しい」という感想で終わってしまった。ただ文章全体を流れる“町に対する思い”だけは確実に汲み取れたと思う。


『使命』
着想の点では、この作品集随一の傑作であると言えるだろう。“くだん”の怪異を日常レベルの風景としてここまで解体して取り込んだ点は、最大級の評価をしても良いのではないかと思う。もしこれが古来より伝わる絵画であるとか、また普段は人目につかない場所に安置されている物であるとかであれば、おそらく陳腐な変化球で終わってしまっていたであろう。少々おバカな牛の絵、しかも放置された看板が引き起こす怪異であったからこそ、“くだん”というかなりヘビーな妖怪の持つイメージとのギャップに腹を抱えてしまうのである。
この作品は、ただ面白可笑しいだけではない。看板と“くだん”を融合させてしまうという離れ業級のパロディーを見せながら、しっかりと“予言獣”の恐怖を煽っている。主人公が携帯で撮った写真をあちこちに投稿してばらまいている姿は、まさしく予言獣の言葉に対する正統的な対処法なのである。災厄についての予言(これがこの作品では書かれていないのであるが、具体的な内容が書かれていないことによる不安感の創出は秀逸である)は目撃者だけの秘密にしてはならない。これをより多くの人に知らすことが予言獣出現の目的であり、その存在意義に通じるのである。このあたりがしっかりと書けているからこそ、単に“くだん”をネタにして笑いを作っているわけではなく、その本質を理解した上で見事に換骨奪胎していると言えるだろう。恐るべき作品である。
ちなみに最後の“牛丼屋”のくだりであるが、これは創作怪談、特に笑いをベースにした作品の場合、あって然るべきオチだという印象である。個人的には非常に好ましいエンディングであると思った。


『風呂』
実話怪談においても時々「トトロを見た」とかいう実体験が飛び出してくる時勢である。本当は「トトロに似たあやかしを見た」というのが正しい表現になるのだが、やはりビジュアルで見慣れている概念に集約されてしまうために、そのような発言になってしまうのである。やはりアニメの影響力というのは、事実でさえ変形させてしまうほどなのである。だが、目撃談として“トトロ”という名前を出してくることは、実はそれ自体で“実話怪談”としての価値を下げてしまうことになる。「あったることをあったるままに書く」というのが実話の真髄とするならば、強烈なキャラクターのイメージで表現することは、既に実話の魅力を殺してしまっているようなものである。都市伝説であれば、それはそれでネタになるだろうが。
この作品はそのアニメキャラの中でも極めつけの“ミッキーマウス”を登場させている。創作怪談ならではの着想であるが、この名前をいきなりダイレクトに出すことによって読者の目を惹き、なおかつシチュエーションを最小限で表現することに成功している。イメージの固定化である。「怪異を通して人を描く」方向があるから出来る技法である。
この作品が駄作に落ちない部分は、このミッキーに対する主人公のリアクションの妙なリアルさである。本当ならばこんな意味不明な状況であれば大騒ぎになってしまうかもしれないのだが、“恥ずかしくて立ち上がれない”とか“ミッキーが流されたら、世界中から怒られそう”だとかを大真面目に考えてしまうところに恐ろしいまでのリアリティーを感じてしまう。言うならば“ミッキーマウス”というキャラクターが先に存在し、不特定多数の読者に対して揺るがないイメージ(好き嫌いは別として)が確保できるから可能な筆法である。その点では読者を巧みにリードしていると言えるだろう。個人的には「そのまま下水に流してしまえ!」であるけれども。


『鏡』
実話怪談を彷彿とさせる作品であるが、正直、怪異のインパクトが弱い気がする。この悪夢にリアル感を持たすようにしないと、結局最後の両親の一言が生きてこない。そして「同じ夢を見た」という言葉の強烈さがないと、この作品そのものの恐怖感は半減してしまう。夢自体に恐怖を覚えさせるほどの内容が必要があることは勿論であるが、その描写が緻密でないと最後の衝撃まで印象を維持することが出来ずに、どうしても恐怖感が失速してしまっているように感じる。
800字の制限の中でコンパクトに起承転結のあるストーリーを完結させていると思うが、実話怪談の次元で見てしまうと、ちんまりと奇麗に収まっているという印象の方が強くなる。たった一夜で家族全員が同じ夢を見たからといってここまで態度を豹変させる父親もどうか、というのが正直な感想である。こういう“因果な品物”にまつわる怪異は、出自に関する情報があって初めて何らかの意味を持つところがあるので、字数制限に対しては不利だということに尽きるのかもしれない。


『踏み板』
プロフィールの部分を拝見すると、この話は実体験であるらしい。つまり正真正銘の実話怪談である。というわけでもないが、本来の実話講評の次元で語ることに。
まず、描写と説明と会話のバランスがよく、テンポの良い展開になっている。怪異自体がそれほど強烈なものではないので、どうしてもストーリーによる展開が必要になってくるように思うが、その点はクリアできているだろう。ただし冒頭の犬のエピソードは怪異と全く関係がないので、字数制限も考えるとかなり蛇足の感がある。むしろ妻が右足を骨折したことが怪異を思い出すきっかけになっているので、そちらの状況に言葉を費やすべきだっただろう。もし異常な状況での骨折であれば、なおさら書くべきだろう。
最後の2行はいわゆる“思わせぶり”な表現で余韻を残そうとしたのだと推測するが、怪異の起こる条件が明らかになっているところで“夫婦人形”は却って余計なアイテムになっている。もし原因がわからずこの夫婦人形で怪異に変化が生じているということであれば、書く必要はあるかもしれないが。
全体的には、些細な怪異を上手く切り出してまとめきったと言えるだろう。字数制限のある中では、そこそこ評価できるかもしれない。


『狐がいる』
おそらくこの作品を実話怪談として提出したならば、「体験者のことばかり書きすぎ」という評を喰らうことは間違いないだろう。そして「“投げっぱなし怪談”にすべきだ」というお叱りも受けることになるだろう。要するに、独り部屋で寝そべって影絵で遊んでいたら、もう一人分の影絵が現れた…というわずか数行だけで完結させる形式の怪談にした方がインパクトがあるという意見が続出するに違いない。それだけ怪異の起こるシチュエーションが興味深いということになる。
正直なところ、“あったること”だけという感覚で起こった怪異だけを抽出して書ききっても、それはそれで着想の点で抜きんでていれば、創作怪談のジャンルでも良しとすべきだと思う。この作品の場合、やたらと主人公が怪異に対して動きすぎており、折角の“狐の影絵”という印象的な怪異が薄まってしまったように感じる。さらに最終段落の感想など、本当の体験談での感想だとしても不要だとバッサリ切り捨てるようアドバイスするだろうぐらい、無駄に近い内容であると思う。怪異の提示だけで十分不思議感が維持できているにも拘わらず、作者自身がこれでもかとこねくり回してしまったという印象である。怪異譚に徹するならば、的確な切り出しと素早い展開が必要なのではないだろうか。あくまで個人的な意見ということではあるが。


『ディアマント』
初読の際、心中かなり慌てふためきながら読み進めることになってしまった。名取洋之助土門拳といった実在した写真家の名前が躍り、しかもベルリンオリンピックや幻の東京オリンピックという歴史的事実まで登場しているのである。それが正攻法の説明口調で次々と怪異の中に組み込まれていくのである。まさかこんな凄い心霊実話を今まで知らなかったというのは、心霊マニアとしてかなり恥ずかしい事態だと焦ったわけである。ところが最後の方の“某野球場”というくだりから雲行きが怪しくなってきた。そして最後の2行で全てが解決した。これは明らかなフィクションであると…。とりあえず資料あさりで家中を引っ掻き回す必要がなくなったわけだ。
原因や繋がりが明らかであればあるほど恐怖度が増す“祟り系”の怪談以外は、怪異に関する解釈を施さない方が無難である。怪異に解釈を施すという作業は親切でも何でもなく、ただ怪異の不思議さを削ぎ殺すだけの効果しかないというのが定説である。この作品ではそれどころではなく、ある意味、馬脚を現す元凶にすらなっている。だが逆から考えると、フィクションであることをほのめかすためのレトリックであるとも考えられるわけであり、もしそれを意図して書かれたものであれば凄い力量であるだろう。ただし、いずれにせよ作品そのもののダイナミックな展開を殺すことにはなっていると思う。
こういう伝奇的な創作怪談で、個人的にあまり情報を持っていない人物が登場するとかなり幻惑されることがままある。この作品もその中の一つということになる。慌てた分だけ、してやられたという感が強い。


『シミュラクラ』
タイトルの本義は“3つの点があると、人間はそれを人の顔のように認識する現象”であり、心霊写真と言われるものの殆どはそれで解決できるというものである。ただこの作品の場合は、3点で人の顔に見えるという物理現象そのものではなく、恐怖感を煽る目的で仕掛けた罠に逆に心理的に落とし込まれてしまうというストーリーを象徴させる言葉として使っているようである。
だがこの作品は、広義の意味でも“怪談”ではないという意見である。一見怪異に見える女の子の言葉であるが、実はその確証となるものは全くなく、その言葉に過敏に反応(本人達は本物のスナッフビデオであると思い込んでいるわけだから)してしまっただけのことである。特に最後に女の子が笑いながら出てきたというところで、「霊がいる」という発言が完全に確信犯的行為であったとみなせるだろう。
結局そのように見てしまうと、少々ブラックではあるが、単なる笑い話のレベルである。取りたてて評するものではないということである。


『怖いビデオ』
まさに“思わせぶり”だけで怪談を成立させてしまったという作品。極論すれば、数年間にわたって家族を襲った不幸を羅列しているだけである。しかしそこに“心霊番組を撮ったビデオ”を登場させるだけで、バラバラに感じていた事実が奇麗に一本の糸で繋がったように見えるのである。これも読者がそのように感じるだけであり、作中の主人公もそのような発言をしていないのである。ただ無駄がないように事実が置かれているだけであるから、読者は勝手にそれらが一つの原因によって繋がっていると勝手に解釈するしかないのである。むしろそういう形で読者を恐怖の想像へ駆り立てるような暗示がない分、読者自身が容易に事実を結びつけるように仕向けていると言えるかもしれない。そして無意識のうちにそのような想像を膨らませている自分に気付いた瞬間、恐怖はクライマックスを迎えるのであろう。とにかく作者の誘導ぶりが際立っている。
意味のないもの、理由のないものに禍々しさを感じるという典型的な作品である。