『てのひら怪談 2』作品評の七

『鳥雲』
人が造ったものでもないのに、なぜか禍々しさに満ちている物や光景というものがある。鳥雲はまさにそれの典型であり、そのスケールの大きさには圧倒される。鳥から蛇の姿を変えていくのはおそらく“邪神”のイメージからだと推測するが(雲なのだから時間が経てば形を変えるのが自然という発想もあったかもしれないが)、個人的には鳥の姿のままでも十分強烈なインパクトがあったと思う。
この鳥雲を眺めている少年達の心理描写が非常に巧みであり、それが各々の言動から見て取れる。明示はされていないがおそらく放火魔本人であろう米沢のやや自己陶酔的な予告、そして辛うじて理性で受け止める主人公、さらにその言葉で衝動から解放されてやや正気に返る米沢。こうして魔に魅入られた少年の所業は収まることになるのであるが、その部分の緊迫感が鳥雲のビジュアルと上手くマッチしており、本当に絵になるという感じである。
ただ「思い出を語る」という形式で、冒頭と末尾に“大人になった自分”という枠を設けたのにはやや疑問を感じる。子供時代の体験を語る場合に実話怪談が採る常套手段であるが、果たして創作怪談の場合にこれをやる必然性があるかというと、この作品では禍々しい状況が現在進行形で語られる方がより強い内容になったように思うので、むしろ余計な枠という印象である。さらにカギ括弧で括られているために二重括弧まで登場してしまい、見た目にもややきついという感じである。


『帰り道にて』
“一人だけ取り残される”というシチュエーションの怖さを、これでもかとばかりに読者に突きつけた好作品。少なからず怪異らしきものはあるが、それを上回るのは“自分だけがその怪異を見ることが出来ない”という心理的不安感である。いわゆる“見える”人が語る孤独も凄まじさを感じるのであるが、自分だけ見えないという意識は、大多数が“見える”ということで物理的条件面でも圧倒的有利に立っている分だけ疎外感はより強烈になるだろう。さらに悲惨な状況になるのが、この“自分だけが見えない”という事実を、他の“見える”人に気付かれた瞬間である。ある意味身の危険すら感じさせるところであり、ダイレクトな恐怖感が生まれてくる場面である。
この作品の秀逸なのは、日常の光景から一気に異常な場面へと変化していくところであり、翌日になると特段変わらない日常に戻っているという極端な状況の転換である。こういう異常事態が継続的につきまとうというパターンも恐怖であるが、この作品のように、自分だけが見えないという異変になぜ落とし込まれたのかすら考えさせる糸口を与えない展開というのも相当怖い。まさに何がなんだか解らないというまま終わってしまうことで、新たな不安感を煽っているように思う。「今度同じような状況になったら、どうしたらいいのだ」ということを常に頭の片隅にへばりつけて暮らしていかねばならないわけだから。


『問題教師』
まさに“一発芸”の境地である。こういう公募大会があれば間違いなく1作ぐらいは出て来るであろう、奇抜な文体の怪作である。ちょっとオツムの弱そうな、今どきの女子の会話をそのまま見事に文章化しており、並み居る“文芸”の中で異彩を放っていると言えるだろう。単純に表記の面だけではなく、途中で差し挟まれる脱線のタイミングや内容までもが、いかにも頭が悪そうなという印象をあたりに撒き散らしている。これだけで十分インパクトのある作品に仕上がっていると言ってもいい。
ただし怪談としてはあまりパッとしない。怪異の内容としては、樹海で霊を呼び出してしまったというところで終わってしまっており、大したものではない(まさかこのイカレっぷりが樹海の怪による…などということにはさすがになるまい)。これが実話怪談として提出されていれば「怪異の内容の弱さを文章の奇抜さでカバーして、何とか読ませる作品に仕上げたもの」という評価に落ち着くだろう。やはり創作怪談としては、オチにもっと気の利いた捻りがないと、単に文体で奇を衒ったというレベルでしか見てくれないと思う。しかしながらそれ故に、愛すべき“一発芸”なのであるが。


『せがきさん』
最初は“こっくりさん”の亜種かと思ったが、その方法をきちんと比較するとかなり違うものであるという認識に至った。この“せがきさん”は供物を捧げて願いを叶えてもらう形態を取っており、“こっくりさん”のように無償でお願いして来てもらうものとは明らかに内容の違うものである。この違いが、作品における顛末に影響しているように感じる。
こっくりさん”ネタの場合、あやかしの被害に遭うのは呼び出した者たちということになる。だがこの作品では“せがきさん”を阻止した担任にあやかしが憑いてしまう。初読の際に、これが非常に引っ掛かったのであるが、上に明記した相違点を考えると、非があるのは呼び出した者ではなく、むしろ捧げものを粗末に捨ててしまった担任にあるのではないだろうか。それ故に、あやかしの怒りの矛先が担任に向けられたと解釈すると、すんなりいくように感じた。
そのように考えると、一見邪悪で無慈悲な“先生はご存命”という最後の言葉の意味も変わってくるだろう。“せがきさん”の存在と正体を知っている者からすれば担任のやった行為は冒涜以外の何ものでもなく、むしろ存命であることへの安堵とも取れるからである。これに呼応するように、最終段落にある“先生が干物のようにやせた”や“あやかしが頭を包んでいた”表記部分であるが、文法的には現在進行形とも過去完了とも解釈できるために、既に担任に取り憑いていたあやかしが去ってしまっているとも推測できるのである。
あくまで個人的な解釈の世界であるので、素直におぞましい展開に身を任せた方が面白いかもしれない。担任の頭に齧り付いたあやかしの強烈な容姿を考えると、なおさらそのように感じるところでもある。


『アキバ』
前半を読む限りでは、主人公の小学校時代の思い出、それも最悪な女教師の身に降りかかる怪異…という雰囲気で進んでいく。ところが、何の急展開もなく卒業後の現在に突入、そこからとんでもない事実が露見していく。良い意味で読者の憶測を振り回してくれる、素晴らしい作品である。
特に秀逸なのは、最初の段階は完全に主人公目線という非常に狭い視点から状況が語られながら、それが自然な形で周囲から見た視点での真相へと移っていく部分である。たとえるならば、立ち位置をひっくり返すというよりも、カメラのズームをスムーズに移動させることで視野が広がっていくような感覚である。複数の証言者の登場によって初めて怪異の全貌が明らかになるという構成が、見事に決まっていると言えるだろう。そして最後に現れた真実と主人公の自己内体験をつきあわせてみると、きちんと伏線が張られている点も良い。前半に出てくる妹の言葉などは、なるほどというところである。
作品全体の構造もさることながら、アキバという女教師のキャラクターも凄い。彼女の理不尽な命令や脅しは、冷静になって考えるとシュールなのであるが、小学校時代という曖昧な記憶部分もある時期の思い出としては、突き抜けたリアリティーがあるように感じる。この内容であるからこそ、後半のどんでん返しが生きているのだと思う。
個人的な印象としては“憑き物系”、しかも狐ではなくて天狗の仕業にように見えて仕方がない。名前が“アキバ”だからやむを得ない発想か。


『壁の手』
最後の部分で、主人公の怪異に対する明瞭な解釈が打ち出されている。実話怪談であれば、それだけで「独りよがりだ」という批判が出てくるだろう(特にこの作品の場合、“見える”人っぽい表現があるのでなおさらである)。だが、この創作作品では怪異そのものよりも、主人公の感じるままの解釈の方が作者の意図する主張であるために、突出していても殆ど違和感がない。このぐらい明確な方がむしろはっきりしていて好感が持てる。
そしてこの作品の特徴は、子供時代の思い出を反映させているような、ゆるい文体である。厳しい言い方をすれば“紋切り型の説明調”であり、好意的に見れば“平明な言い回し”になるだろう。個人的には、この文体が子供らしい感触をもたらしているように思っている。もっときびきびした描写で情景や心理を書くことも可能であるとは思うが、敢えて“子供っぽい”感情を文に託したとも取れるので、ここはプラスに評価したい。怪談でありながら何かホッとさせるものを持った、侮りがたい作品である。


『写生』
実話怪談風の作品。ただし整合性の面で、少々難があるように感じる。何と言っても、校舎の上にある黒い塊を描いた当の小学生達が描いた記憶すらないというのは、どう考えても不自然である。しかも校舎を写生しなかった生徒だけは、その黒い塊を“人”であると分かるほど明瞭に認識している。黒い塊をどうしても怪異としたいために無理をしているという印象である。小学3年生であれば、校舎の上に黒い塊があればその場で大騒ぎしているはずだという、常識的見解の方が勝ってしまうわけである。そしてまたその考えが脳裏にあるために、作者は苦肉の策を採ったと多くの読者が感じているのではないだろうか。
ストーリーとして整合性に問題を感じてしまうと、どうしても読む勢いも減じてしまう。特にこういう“実話”的な味わいを見せる作品であればあるほど、その思いは強い。


『酒場にて』
“予知絵”をモチーフとして展開する作品であるが、個人的には画題が予知として成立しない部分があると感じたために、苦しいという印象である。“恐ろしい形相の人間に踏みつけられる小さな女の子”の絵を、自分の死の直前の光景として本人が描いたというのには少々こじつけがあるように思う。これは日常の虐待を描いたという方が理にかなっているだろう。本人が予期しない突発的な事故死の状況を描いた絵であれば納得がいくが、踏みつけられている絵だけでは直接の死因となっているかが明確でない分(しかも娘の死は公式には“病死”と後述されている)説得力を欠いていると言えるだろう。それ故、予知絵という怪異が完全に成立しない弱みがある。
だがそれよりも、この作品の持つ強烈な印象は、この絵を巡る二人の大人の対応である。娘の父親はこの絵を幾重にも折り畳み、そして手垢がつくまで繰り返して見ているように書かれている。死因に納得がいかず、そして行き着く先にこの絵を“予知絵”と考え、何の光も見えてこない期待に身を寄せ続けている姿は、悲しみ以上に薄気味悪さを醸し出している(酒場のテーブルで沈痛な面持ちで子供の絵を眺めている光景は、想像するだけで寒々とする)。そして主人公の方も、この絵に対する直接的な感想も出さず、ただ最後の2行において“伝聞体”という非常に距離を置いた形で相手の状況を書き足すことで、やんわりと関わりをかわしている。つまり、この絵が“予知”を示していようがいるまいが、激しく負の感情を放ち、人を暗澹たる気分にさせることに成功しているわけである。この作品全体を覆うどんよりとした空気こそがこの作品の魅力なのかもしれない。


『角打ちでのこと』
最初にある“角打ち”という飲み屋スタイルの説明を読んで、威勢のよいキビキビした展開を期待したのであるが、どうも悪い意味で整いすぎたストーリーになってしまっているように思う。最初に刷り込まれた、ガチャガチャして活気のある酒場の雰囲気で読んでしまうと、店主と客のやりとりが何か浮いてしまうのである。二人の交わす会話は、まさにガランとした店の片隅でひそひそととりおこなわれる秘密の契約を連想してしまう。さらにその話のきっかけとなったのが屋根裏にいる蛇なのであるが、その客が蛇に祟られていると判って店主が話しかけるくだりや、蛇がずるずると動く音に聞き耳を立てる場面などは、どう読んでも、店内に登場人物以外は誰もいないという状況でないと違和感を感じるのである。結局、角打ちの一般的説明とこの作品のシチュエーションが合致しておらず、角打ちの特殊性が殆ど生かし切れていないという印象であり、却って悪い部分だけが目立ってしまったのではないだろうか。
さらに付け加えると、客の男の“蛇の祟り”の内容があまりにも弱すぎる。別に蛇を殺したわけでもなく(家に棲みついた蛇を山に捨てただけ)、しかもそれの実行者は父親である。具体的に誰かが明らかに蛇の祟りを被ったという表記もなく、ただ店主に言われて思い出した程度の話で“祟り”を怖れて勧められたスペシャルドリンクを飲むくだりは不自然である。それより“蛇神さまの卵”の入った酒を売りつける店主の方がよほど因業である。このあたりにインパクトがないのも、ストーリーに起伏がなく、整いすぎているという印象に繋がるのだと思う。


マムシ
蛇嫌いにとっては、たまらんぐらい気持ち悪い作品。蛇の“ぬらぬらと光る脂ぎった鱗”とか“ビンの中で、とぐろを巻いてじっとしている”様子も感覚的に嫌さが出ていると思うし、蛇を残酷なまでに淡々と殺していく祖父にも寒気を感じる。とにかく蛇に関する気色悪いイメージがこれでもかと書かれている。さらに800字の制限の中で11回も連呼される“マムシ”という言葉も、表現技法の巧拙を度外視して、偏執狂的であり、ある種のおぞましさを出しているとも感じる。
インスタントコーヒーのビンに入れられたマムシがゲル状の“蟲”に変化し、化学反応を起こして溢れかえりそうになっている様子も相当にエグい部分であるが、ここからの展開は個人的にはやや飛躍に過ぎるという印象を受ける。前半の“マムシづくし”が現実的リアリティーによる恐怖感を創出しているのと比べると、後半は不条理の連続となっていて、付いていくのが少々苦しいようにも感じた。別の言い方をすれば、様々な次元の恐怖感がてんこ盛りになってしまっていて、ピンポイントで突く部分がぼやけてしまったように感じるわけである。ただし恐怖に対する失速感は殆どないので、最後まで厭さが付きまとってくるのはなかなか良かったと思う。