『てのひら怪談』作品評の十七

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

『(地獄、かな?)』
いわゆる“幽体離脱”の様子を書いた作品なのであるが、非常に不思議な感覚を描写説明することに成功、その迫力によって陳腐な展開に陥りがちなこの種の内容を光り輝くレベルにまで引き上げている。我々の五感はまさに肉体を介して外界を捉えることに他ならず、意識しようとするまいと我々は肉体という制約の下で世界を感じ取ることになる。ところがサイキックな能力(幽体離脱もその中の一つである)はそのような制限を越えた力によって認識をおこなう。その感覚は我々の通常の意識とはまるで違うものであり、このような未知の世界を描写説明することは相当な筆力を有する必要があるわけである。
この作品の白眉は、視覚による認知力の拡張が言葉によって明確に表現されている部分にあると言えるだろう。視認の範囲が全方位に広がり、さらに遠近全ての対象が同時に確認できる世界。それが絶妙の描写で書かれた部分は、読者にとっても体験者同様驚異であり狂気に陥る寸前の感覚に近づくことができるだろう。自分の周囲を全て視覚で捉えるということは、まさに江戸川乱歩の『鏡地獄』において主人公が鏡張りの球体に入って発狂したのと同じ感覚を味わっているのだろうと思い至った。作者はプロフィールで超常体験皆無と語っているが、この想像力の凄味には感嘆するしか方法がないと言って間違いではないだろう。


『神を見る人』
この作品は重厚な文体によって支配されていると言ってもいいだろう。もし仮にこれと同じシチュエーションであったとしても、平明でテンポの良い文調であれば途中で完全に失速していたと思うし、おそらく交差点で奇矯な振る舞いをする頭のネジが吹っ飛んだ爺さんのキャラだけが突出した内容で終わってしまっていただろう。一つ一つの言葉に重みがあるからこそ、日常でも見かけることがあるかもしれない狂気の行動の背後に潜む存在を感じ取ることが出来るのである。まさに言葉によるオーラと呼ぶにふさわしいインパクトであると言えるだろう。
そして言葉の重みは同時に、この何気ない一風景を緊迫の場に変貌させることにも成功している。冒頭部分にある子供ののどかな様子から一気に登りつめる緊張感は、「神」という言葉を出すにふさわしい場面を生み出し、二人が間近で対峙するクライマックスの表現は背筋から汗が滴り落ちるかの如く静かな殺気すら感じさせる。単純に古めかしい言い回しで迫るだけではなく、読者の脳裏にビジュアルとして直接的に入り込んでくるようなしっかりとした表記であるからこそ、このような劇的な場面が生まれると言うしかないだろう。“神を見る人”とは狂える老人であり、それに対峙する主人公であると同時に、この二人の織りなす荘厳劇を垣間見た読者であると言っても、あながち間違いはないかもしれない。


『魚怪』
志怪小説を丸ごと移植したような作品。ただし作者自身が完全にその作法を吸収して咀嚼した状態で書いているために、模倣のレベルはとうに超えたレベルであることは言うまでもない。ストーリーの短さや怪異の内容から考えても『聊斎志異』あたりをモチーフとしていると推測できるが、中華風にかき集められた様々なパーツはおそらくあまりにもきれいに消化されてしまって出典がどこかなどを詮索することは叶わないと思う。形態模写で特定の人物を表現しながら、その人物とは全く関係のない演出を施すことで新しい可能性を広げていくという手法に近いものを感じさせるレベルであると言えるだろう。特にそれを感じさせるのは、あやかしである魚の姿についての表記で、唯一カタカナで“ヒト”と書いている部分。このあたりが単純な真似のレベルでは出来ない鮮やかな部分である。読んでいて思わず息を詰まらせてしまったところであり、あやかしの持つインパクトをいとも容易く高める強さを感じる。多様性を誇るアンソロジーの中にあって異彩を放つ作品であるが、それに見合うだけの充分な力量も秘めている分、独自のポジションを持っているという印象である。


『猫笑』
実験的と言おうか幻想的と言おうか、しかしながらそのような質のものとも明らかに一線を画しているとしか言いようのない印象を持った。ただ間違いなくこの作品は“怪談”である。
過去に死んだ猫が登場しているからというだけではない。むしろ死んだ猫に対する気持ちのぶれが、やがて主人公に大きくかぶさってくるプロセスがあるからこそあやかしとして成立すると思うのである。死に至る猫を見据える悪意のある視線が描かれている段階では、これは単なる悪趣味なストーリー展開でしかない。ところが猫を死に追いやることで一身に関心を集めていたはずの彼女も死に至った時(“裸で横たわる”という表記から彼女はたった今死んだ、しかも主人公によって手を掛けられたとイメージするのが最も自然であるだろう)、主人公が見たものは猫であり、猫へ救いを求めようとし始める。だがこの短い展開の中で彼女を死に至らしめた存在を考えると、どうしても猫の存在に行き着くはずである。主人公が彼女に対して負った罪悪感が生み出した幻影なのか、あるいは本当に霊が復讐をなしたのか、とにかく主人公は猫の存在に導かれるように彼女の死を選択したのではないだろうか。状況は異なるがポーの『黒猫』を想起させる、魔性の獣の本領を遺憾なく発揮させた内容の作品であると言えるだろう。そう解釈すると、奇妙なタイトルも相当怖い意味だと感じるところである。


『ブラキアの夜気』
前々作が志怪小説スタイルの復刻バージョンであるならば、こちらの作品は戦前のペタンティズム小説の韜晦趣味が炸裂したと言うべき内容である。そしてまたこちらも単なる模倣ではなく、ペダントのアトモスを充分に汲み取って再構築したと言っても間違いないレベルの作品である。舞台を小アジアの一都市と思しき場所にしたところといい、時代背景として学生運動やハイジャック事件を挙げているところといい、とにかく心憎いまでにディテールに凝っているという印象が強い。それでいながら、あやかしそのものは実に曖昧然として尻尾を掴ませないところもまた幻想味を高めて、読者を良い意味で幻惑させることに成功している。このあたりの呼吸が、模写ではなく自家薬籠中のものとして自在に使っているという感想である。
ただ内容に関して言うと、どうしても800字の制限の中で衒学を思うままに広げるのは難しいと思うし、実際ストーリーを流していったという感は否めない。形式的には重厚なのであるが、内容にまでそれが浸透できなかったと言えるだろう。800字の掌編としてはこのあたりの出来加減が限界なのかもしれない。この手の作品は分量で圧倒する面があるので、やむを得ない部分もあるのだが。


『ボコバキ』
会話文をカギ括弧でくくらず地の文で書き綴っており、それだけ非常に硬質な文体になっている。この文スタイルが作品の時代背景にマッチしており、硬くて真面目くさった言い回しが妙なアクセントとしてブラックな笑いに幅を持たせているように思う。そういう意味では、この作品も文体テクニックで評価を上げている部類に入るだろう。
ネタの内容は有名な都市伝説であり、出された食材が実はとんでもないものだったという話と、客が連れてきたペットを誤って調理した話を巧くミックスさせて、新たにグロテスクな展開を作り出していると言える。ただこのあまり気分のよくない話をフォローしているのが先に挙げた文体であり、軽妙とまではいかないが、あまり度が過ぎないような語り口で巧くグロを抑えているように思う。
またこの嘘くさい都市伝説のネタにリアリティーを与えているのが、日本人が移民でアメリカへ行った頃の話という時代背景作りである。これが現代社会での話として設定されていたら、間違いなくホラ話と一笑に付されてしまうところだろう。ある意味陳腐なネタを特別な枠にはめ込んで巧妙にリアルさを生み出しているところは、作者の上手さと言うべきである。