『てのひら怪談』作品評の十六

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

茉莉花
あの有名な“生き人形”でなくとも、芝居に使われている人形は概して生命を宿していると言われることが多い。それを操演している人の魂が移り込んだとも、あるいはこの作品のようにモデルとなった人の魂が乗り移ったとも言われる。そして特に女性をかたどった人形は、我が身の美しさに心惹かれ様々な事象を引き起こすという。
この作品は一見珍しいシチュエーションではあるが、実は非常に古典的な人形怪談を甦らせただけの構成で作られている。語られる芝居が小劇場系のものであるという目新しさ以外は、人形の出自に関する曰く因縁、そして人形が絡むあやかしの原因、さらにはその怪異の現象そのものまでもが、全て古典的な流れをモチーフに作られたと考えてもおかしくない。だがそれは決して古臭さや陳腐さで終わってしまうような内容ではなく、演劇界という一風変わった世界のニュアンスが編まれた文章から滲み出てくるような印象であり(死んだ女優と人形との関係がこともなげに飛び出してくる状況を考えると、やはり不思議な空間としか言いようがない)、何かしら奇妙な味わいを持った作品に仕上がっていると思う。


『赤い着物の女の子』
“座長”や“人形”という言葉から、実話怪談の最高峰である『生き人形』にまつわるエピソードであることは明白である。このとてつもなく感染する怪異は、当然稲川氏ばかりではなく、氏の周辺の人間や関係者、さらにはその怪談に興味を持って接触しようとした者にまで影響を与えるだけの凄まじさがある。それ故に最強の怪談である。
この作品に書かれている内容は、この一連のエピソードの中でも散見できる“個人の記憶が書き換えられる”タイプの怪異である。個人の記憶が完全に欠落したとしか考えられないような怪異はかなりあるが(人形作製者本人が「人形を作った覚えがない」と証言した話や、夕方前の大阪から新幹線で移動して熱海に着いたら最終便の時刻だった話など)、体験したはずのない記憶が厳然と本人の中に残っているというのも薄気味悪い内容である。時系列的にあり得ないメンバーと人形が一緒に写っている写真が残されているという怪異まであるのだから、この程度のあやかしはあっても可笑しくないところであるだろう。
封印された怪談にまつわる怪異の報告であるだけに希少性は十分。しかも関係者本人(プロフィールから検索すれば確認できる)による書き下ろしであるから、もはや言うことはないだろう。堪能させていただきました。


『カオリちゃん』
単純に詩というよりも、童謡の歌詞を意識して作られたと言って間違いない作品であろう。実際「さっちゃん」や「しゃぼん玉」の歌詞にまつわる都市伝説(いずれも歌詞内容に“死”が大きく絡んでくる)が存在しており、そのあたりから構成のモチーフが出てきていると推測できる。さらに付け加えると、その内容から同じく都市伝説である「カシマさん」あたりもモデルとされていると考えられるだろう。
ただ逆から考えると、これだけ簡単に由来するキーワードが出てくるということは、ステレオタイプ的なキャラクターになっているという問題も包含しており、とっつきやすさの反面意外性を感じさせるものがほとんどないと指摘されてもやむを得ないところもある。韻文形式で書かれているという特徴以外はありきたりな内容であり、この種の都市伝説に慣れ親しんでいる読み手からすれば、小手先の変化球という印象は否めない。要するに、スタイルの奇抜さで勝負する“一発芸”的な手法であると言える。こういうアンソロジーではアクセントとして需要はあると思うが、ただもう少し捻りがないと(「せなかをおしたアナタ」というフレーズのおかげで陳腐な模倣作に堕してはいないが)、単独の作品として高く評価するのは少々厳しいのではないだろうか。


『少女と過ごした夏』
タイトルからしてハートウォーミングな“癒し系”怪談全開の作品である。ただし体験者と霊体とが近親者や知り合いであるというベタベタな内容ではなく、たまたま部屋に居着いてしまった霊に興味を示しだし、親しみを感じながらもやがては別れの時を迎えるという展開であるために、何か青春小説のような甘酸っぱさが残る作品に仕上がっていると思う。特に別れの場面に特化してエピソードを書いているので、その分だけ感傷的な印象が強まっていると言えるだろう。作者の意図が構成によく現れているところである。
だが、最後の段落部分で体験者の心情が克明に書き綴られていることについては、少々異論がある。場合によってはこのぐらい強烈な感情の発露があってもおかしくないのであるが、この少女の霊との関係やエピソードの質から考えると、どうしても体験者の言葉が強すぎる。もう少しポイントを絞って余韻を残す一言ぐらいで締め括った方が、もっとエピソードが心に染み入るものになったのではないかと思うのである。駄目押ししすぎて、却って読者の想像する余地を奪ってしまったように感じる。怪談の要諦の一つは幽かな余韻に浸らせるにある、ということである。特にこの手の作品の場合には必須と言うべきかもしれない。やはり淡い恋心は声を大にして語るべきものではないのだろう。


『止まない雨』
この世に念を残して死んだ霊は、その果たしきれなかった行為のために永久的に一つの行動を取る場合が多い。この作品に登場する霊体も、恋人との待ち合わせの最中に事故のために亡くなった故に、ずっとその場所に居続ける。しかもその事故と全く同じシチュエーションが揃った時に現れる。最後に語られる真相が彼女の無念さの全てを表し、そして改めてタイトルの意味の深さを知ることになる。
この作品の秀逸な点は、これだけ短いストーリーの中で怪談のポイントとなるべき“恐怖”と“哀れみ”という柱をしっかりと据え立てているところである。事故で顔面がえぐれてしまった霊体の容姿を描写することでショッキングな場面を生み出しており、これが中盤のクライマックスとなっている。これだけでも怪談として成立するのであるが、この後にその幽霊の出る原因を語ることで、この恐ろしげな霊の姿が一転して哀れさを感じさせる動因となる。字数制限の中でこの相反する感情の頂点を書ききることは難しいが、逆に短い展開で感情が大きく切り替わることでインパクトは非常に強烈になると言えるだろう。この作品はその切り返しを自然な流れで作ることができている。“雨”という言葉の持つイメージと相まって、非常にウエットな印象を打ち出すことに成功した作品である。


『お化けの学校』
のほほんとした設定もさることながら、文体そのものも何とも言えずマッチしているために、全体的に“ユーモア”という言葉がしっくりとくる作品に仕上がっている。
幽霊も以前は生身の人間として生きてきた存在であるから、やはり幽霊の世界でも人間社会と同じ仕組みになっているのではないかという推論がある。ただこの作品の面白さは、人間社会のシステムが完全に移植されている部分とそうでない部分とが巧く繋げられているところにある。冒頭部分の“3年間浮遊霊をやっていてようやく就職が決まった”という表記などはその最たる内容であるだろう。言葉の持つニュアンスで意味がきちんと取れるから、妙に面白いのである。またその就職先が小学校でしかもベートーヴェン肖像画というポピュラーな怪異を引き起こす役という設定も、また出世すると有名な心霊スポットへ行けるという話(さらにその出世は全てコネだという噂も出てくる)も、まさに世相の反映であると同時に霊の世界独自の話題に上手に引っかけているという印象である。こういう面白い仕掛けがあるからこそ、思わずニヤリとしながら作者の奇抜な遊び心を堪能することができるのである。落語的な面白さと言うべきだろうか。