『てのひら怪談』作品評の十五

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

『食堂にて』
ぽつねんとある寂れた食堂は、何かしらのノスタルジックな感傷と同時に、入店をためらわざるを得ない不思議な空気が漂っているように思う。別に怪しいものを食べさせるという意味ではない。開店中でありながら猫の子一匹現れない食堂の風景は、入ってはならない場所に来てしまったという後悔で一杯になりそうな気分であり、気まずい空気の中でこれから食事をせねばならないという憂鬱さに満ちあふれてくる。そのような中で展開するあやかしは実に薄気味悪い。店の情景を親子の反応を軸にしてきちんと描写することで、全体の雰囲気を作り出せたところが秀逸である。
冒頭から一種の緊張感を維持した書き方で進められ、読む側も良い意味でのストレスを感じながら読了できた。怪談という括りよりも、ホラー・サスペンスというニュアンスの方が強いように感じるが、それでも最後の場面のインパクトはゾクリとさせられる光景であることには変わりない(その店の女が生身なのか、あやかしなのか霊なのかが非常に曖昧であるところが、余計に“得体の知れない”という印象を強くさせている)。そこまでの緊迫した展開がまさにはじけ飛ぶという印象で締め括られていて、好感が持てる作品である。


『料理屋』
廃墟ネタの怪談といえば、曰く因縁に絡んでとんでもない霊体験をしてしまう大ネタから、こぢんまりとしながらも突拍子もない情景で仰天させる内容までバラエティーに富んだ作品が多い。この作品は後者の代表的なパターンとして高く評価できるものであると言えるだろう。
人がいないはずの廃墟で人と遭遇したり、あるいは今の今まで人がいたと思われる痕跡があったりすると、恐怖感は一気に高まってくる。その感情の針を振り切れんばかりに出来るアイテムやシチュエーションが描ききれるかが、このパターンの作品では最も要求される部分である。この作品の場合、このクライマックスに非常に強烈な物を選んできたために、相当なインパクトが生まれている。机に突き立てられた包丁、しかも“てらてら”と研ぎ澄まされたやつである。もうこの情景だけで、この廃墟ネタの作品は十分評価されてもよいと思う。この無言の殺意とも言える暗示は強烈であり、創作であったとしてもリアリティーのある凄味は決して揺らぐものではないだろう(この話が実体験であったらそれこそ涙ものの希少な作品である)。ストーリーの前後がやや冗長で紋切り型になっているところが却ってあやかしの異常性を際立たせている効果にもなっており、何とも言えない恐ろしさを醸し出していると言えるだろう。


『シルエット』
閉館日の図書館というシチュエーションはなかなか面白いと思うのだが、怪異そのものは正直なところありきたりであり、それに気付くプロセスも少々もったいぶっているとも受け取れる。全体的にはネタ勝負では余り勝ち目のなさそうな内容であると言いきってもおかしくないだろう。
だが、この作品は文章で勝負をしているところが大きいと思うし、実際じっくりと読めば読むほどアトモスを作り出しているのは文章であると感じる。暑い夏の昼下がりのアンニュイな雰囲気を前半で上手く作り出し、その流れを汲んで徐々にあやかしの本質に辿り着かせようという意図が明確である。そういう状況を踏まえて読むと、あやかしの存在に気付く過程がまどろっこしいのも暑さにやられているせいなのかもしれないと妙に納得できるし、シルエットのように見えるあやかしの姿もまさに炎天下で揺らめく影そのものに思えてくる。まさに白昼夢の世界を再現しようとする作者の目的が、見事に展開できているのではないだろうか。読み込んでいくほどに、そのしっかりとした世界観が染みこんでくる作品であると思う。


『休憩室』
プロレタリアート怪談(そういうものがあるとすればだが)としては出色の出来映えの作品であると言える。
職場の怪談というジャンルでは、やはり過労死や仕事の責任を負って自殺したりした人物が職場に現れるという話は数え切れないほどある。それ故にこの作品のネタはさほど目新しいものではないし、むしろ霊と思しきものの登場は非常に些細なレベル(場合によっては体験者の見間違いで終わってしまう)である。しかしこの作品の優れているのは、労働者の悲哀を強い非難や怒りではなく、訥々と語りながらじんわりと伝えている点である。
職場に現れる霊はその多くが心優しき霊である。仕事に殺されたといってもおかしくないのに、なぜか未だに自分の仕事を全うしようとして職場に現れる。そして同じ立場に立たされている人を助けることすらある。ただ他の作品の場合、このような心情にまで霊が至った経緯が取って付けたようにサラッと書かれているだけで、おぼろげながら想像するしかない。しかしこの作品は、霊の出現よりもそのプロセスに焦点を当てているために、痛いほど霊の行動に共感を覚えるのである。最後の場面で、背中を向けて立ち去る霊の姿は何も語りはしないが、読者はその姿だけ十分その意を汲み取ることが出来るだろう。


『心臓カテーテル室で』
病院怪談代表としてエントリーされた感の強い作品である。職場の怪談の中でも病院は別格であり、人の死がつきまとう確率が非常に高い現場は、常に怪異にあふれているといってもおかしくない。ところが、その現場で働く医師や看護師は怪異を体験している者が多いにもかかわらず、非常に冷静で且つそういう現象を“あったること”として割り切って認識している。一般の人であればそれこそ“恐怖体験”と銘打ってもおかしくない現象ですら、彼らからすれば“不思議なこと”で片付けられるように見える。実際は「いちいち怖がっていては仕事が出来ない」というのが本音であると聞くが、それでもその感覚は他の職種の人間からすると奇妙に思うところである。
この作者も病院関係者であり、自分自身の体験ではないものの、かなり醒めた目線で怪異を捉えている。まさに「この程度の怪異なら病院にごまんと転がっているよ」と言わんばかりの語り口調で書かれており、そのあたりのドライな雰囲気が文章から滲み出ている。実際、病院の怪談としてはよくあるレベルの怪異と言ってもいいのであるが、その妙に素っ気のない書きぶりが怪談として枯れた味わいを見せている。実話怪談として読むと非常に物足りなさを感じるのであるが(記録としての詳細さに欠けると言える)、日常的な超常現象に眉をひそめて語る現場の人間の気持ちが透けて見える分だけ、奥行きのある作品であると思う。


『月は緞帳の襞に』
一読して、近世ヨーロッパの風合いを色濃く残した一地方都市のイメージが大きく膨らんだ。作品の至る所に散りばめられた小道具の鈍く怪しく光るインパクトは、まさに人工的に作られたイメージの結晶であると言えるだろう。自動人形やオルゴールといった不思議なあやしさを放つ絡繰り機械をオペラの舞台に立たせ、いやが上にも不思議な世界へ読者をいざなうような仕掛けが施してあるのは、さすがと言うしかない。また最後あたりに登場する霊体の容姿も、普通の人間と変わりない肉体を持っているという近代的な姿ではなく、骸骨を彷彿とさせる、まさに中世ヨーロッパのイメージに近いものを選択しており(そして彼らが行列をなして行進する様もまた“メメント・モリ”の世界観に彩られているだろう)、いかにも作り込まれた感が強いと言える。
この作品も小宇宙を形成させることに成功しているが、ただイメージ先行の内容となっており、典雅で優美な印象は強いものの、怪談としての“凄まじさ”に欠けるきらいがある。最後の部分の荒涼感がもっと強調されていれば、それなりの効果があったのかもしれないが。