『てのひら怪談』作品評の十四

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

『乗り移るもの』
自動車にまつわる実話怪談の定番、車にへばりつく(あるいは乗り込む)霊体の話である。この種の霊体は自動車に取り憑くのであるが、その対象は不特定多数であり、むしろ自動車には取り憑くもののエリアが定まっているので一種の地縛霊であるとも考えられるかもしれない。
この作品に限らず、この種のパターンはどうしてもオチが先に分かってしまっており(半ば都市伝説化している内容である)、それを覆すような内容に出くわすことは殆どない。この作品も最終的に自分の車に乗り移られるところで終わるが、これもいくつかある想定パターンから漏れるようなものではない(さすがに最も強烈な締めくくりであることは間違いないが)。だがこの作品の怪異の希少性は、車内に乗り込まれたのを体験者自身が確認してしまったということに尽きるだろう。もしこれが実体験であれば、相当のマニアに披露しても十分耐えられるだけの内容であると思う。
ただ実話怪談の範疇から言えば、あまりにもストレートに書きすぎているために、インパクトに欠けるきらいがあるという点である。どうしてもパターン化された内容であるために、素直に書いてしまうと衝撃が薄れてしまうと言える。正攻法の怪談としては及第点は出せるが、この手の怪談話に慣れている人間からすると、もう一つひねりが欲しかったところである。


『生ゴムマニア』
内容の奇想天外さで言えば、抜群の怪作である。世の中には“ゴムフェチ”という種類の人間がいて、日常生活の場で全身をラバースーツで覆い(もちろん最低限度呼吸できる穴を除いて全身を覆い隠す)、色々な行為をやらかすという。その設定だけでも十分変態的なのであるが、この作品はそこに様々なオプションを加えることによってさらに壮大な謎を作り出している。呼吸のための開口部が全くないスーツであるとか、両腕の部分がゴムだけである(どうやって運転をしていたのかは全く言及されていないからさらに不気味である)とか、とにかく薄気味悪い存在を巧く作り出している。そしてその存在を監視しているかのように現れる数多くの人間と、事故現場に残された“済”の文字あたりになってくると、シュールさを通り越して何か陰謀めいた雰囲気すら漂ってくる。
一つの“不条理小説”と言ってしまえばそれまでであるが、人の中にある心理的不安をえぐり出すといった目的があるわけでもなく、ただひたすら不気味でいながら何かとぼけた風景を畳みかけるように造形している、つまり都市伝説的なキャラクターに似たものを作り上げることだけに専念した結果生み出されたあやかしを存分に展開させた内容と言っていいと思う。下手な解釈などせずに、そこに書かれた内容だけを思い切り吸い込んだ方が絶対に面白い作品だろう。


『山の中のレストラン』
本書の中でベストを選べと言われたら、おそらく候補として筆頭に名前を挙げることになるだろう作品である。まさに怪談のある種の本質を完璧に近い形で汲み取って構成されたと言うべきであり、一つの理想型を成していると言っても過言ではない。
たわいのない親子の会話から始まり、軽快な調子で前半は進む。そこにふとしたきっかけで注目を集める事物(ここでは廃レストラン)が、実は禁忌の対象であることが示唆される。この示唆の方法が非常に穏やかであり、最初からおどろおどろしい表現を使わず、できれば知らずにやり過ごせたらという感触で語られるところが自然なのである。さらにその禁忌の対象に知らずに入り込む車に対する父親のコメントの一つ一つが非常に漠然としながら、禍々しい印象を強烈に与える符丁になっているために、ダイレクトに怪異を語る場合よりも遥かに重みを持っているという印象が強くなる。まさにこの父親の短い言葉の奥深くにある真意を推し量ることで、この場で語られなかったあやかしの輪郭が浮かび上がってくる。そのあやかしは具体的に語られることがないために読者の想像力を刺激し、無限の闇を作り出すことになる。
怪を語らずして怪を示すことに成功した作品であり、この父親の奥歯に物が挟まったような物言いが逆に鮮明に禁忌の対象の凄まじい禍々しさを表し、読者の恐怖感を煽るのである。優れた怪談話である。


『田んぼ』
当事者にとっては迷惑この上ないのであるが、何かしらイメージとして一つ間が抜けているような長閑さをたたえているために、ほのぼのとした印象すら与えてくれる作品である。言うならば、同じカテゴリーのものが田んぼに飛び込んでくるというシンクロニシティであり、その飛び込んでくる内容物がどんどんエスカレートしていくわけである。これは笑いのツボとほぼ同じ部分を刺激する展開であり、その点でも恐怖感以上に珍妙という印象が強くなるのもうなずけるところである。また語り手であるおじさんがいかにも田舎の百姓丸出しの喋りで解説を入れてくるから、余計にお笑いのパターンに近い構成になっていると言えるだろう。ただ内容が内容だけに、笑いといっても完全なブラックジョークに属する笑いとなるわけだが。
田んぼにまつわる曰く因縁を添えてもっとおどろおどろしい内容にすることも可能だったと思うが、この字数制限の中では胡散臭さの方が強くなる懸念もあり、このようなカラッとした笑いを誘うあやかしにしたのは正解ではないだろうか。なかなか面白味のある作品であると思う。


『とある民宿にて』
民宿は家族単位で経営されている場合が殆どで、客が行き来する表の間と壁一枚を隔てて家族の生活が営まれている。希望しようとするまいと、客はその家族と大なり小なり接触しながら旅の一時を過ごすのである。家族にとって日常の姿であるが、そこに泊まる者にしてみればそれはある意味異界に近いものを見ることに等しいのかもしれない。
家の事情を知らない者が予備知識なしに禁忌の核心に遭遇するというこの作品の展開は、まさに民宿のようなシチュエーションを想定することによってより自然な形で読者を話の中に引き込んでいく。ただし余りにもはまりすぎたパターンであるために、怪談マニアであれば話の途中でほぼオチとなる事実に気付くはずである。おそらくこの作品で言えば、主人が語る真相で終わっていれば、さほどひねりのないたわいのない怪談話という評価で事足りていただろう。だが、最後の最後に女将の謎の笑みを提示することで、この作品は単なる怪談以上の含みを持つことになる。果たして本当に主人が言うように狂っているのか、それとも本当に我が子の霊が見えているのか、あるいは家族ぐるみで客を騙そうとしているのか…。読み手をも混乱に陥れる結末が用意されているからこそ、この作品は心憎いぐらい深みを増し、あやかしの核心を突き抜けた薄気味悪さが如実に現れていると言えるだろう。


『夜釣りの心得』
冗談か本気か分からない主人の語り口が絶妙な作品である。冗談にしてはやけにリアルであるし、かといってそこに登場するあやかしの様子を見るとどうも不真面目な話にも思えてくる。とにかく摩訶不思議な話と言うべきであろう。だが、この語りこそがこの作品の魅力であり、そして怪談話の一つの本質を射抜く内容であると思う(実話であるとは思えないが、一般に語り継がれる怪談として成立するプロセスを垣間見ることができるだろう)。
溺死した子供の霊なのか、海に潜むあやかしの化身なのかは定かではないが、いずれにせよそのものも目撃ないしは似たような体験がおそらく下敷きとして存在しているのだろう(もしかすると、どこかで聞き及んだ伝承が基になっている可能性もある)。最初は主人も夜釣りを拒否する方便として語っていたのかもしれない。だがそれを語るにつれて、単に“出る”だけだった話に尾ひれが付いて、まことしやかな怪談話として完成されていったのではないだろうか。
そのような成立過程をうかがわせるのが、あやかしの本題の前後に付けられた“枠組み”である。まさに虚々実々の世界をきれいにくり抜いて飾り立てるようにして置かれた前後のエピソードのリアル感が、荒唐無稽に近い怪異譚に何かしらの信憑性を与える効果となっている。仮にこの枠がなければ、間違いなくこの怪異の話はただの与太話に堕していたであろう。