『てのひら怪談』作品評の十三

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

『新幹線』
新幹線は、意外と言うか、怪異が結構起こるスポットである。この作品にあるような怪異も報告されているし、一つの車両全てが異界状態になったという話もあるし、いわゆる心霊スポットと呼ばれるトンネルも存在する。あれだけの高速で走る物体である。我々の日常の感覚では捉えきれないものが見えたり聞こえたりするのも致し方ないのかもしれない。
この作品も実話怪談のフォーマットに近い書かれ方であると見て間違いないところであるし、実際にあった話であると言ってもおかしくないリアリティーを持った内容になっている(正直なところ、判断は難しい)。だが、実話怪談として評価するには微妙な部分があるのも事実である。子供のはしゃぎ声に対して体験者が思うところを述べている部分である。この部分が公共マナーについての体験者の一般論的見解になっているのだが、全体的に“あったること”を細大漏らさず記録するという傾向の強い作品にあっては少々違和感を覚えるところである。体験者の性格が大きく反映される、あるいは体験者とあやかしとの関連性が強い内容であるならば、そういう意見や考え方を明確に出すことは吝かではないと思うが、客観性重視の内容の場合はそういう個人的見解を差し挟むとぶれてしまう恐れがある。この作品の場合はまだバランスを崩すには至らなかったが、注意は必要だと感じる。後の部分は非常に冷静な筆致であり、ある種の緊迫感を維持した作品であると言えるだろう。


『朧車』
欧米の心霊学では“物が霊魂化(幽体化)することはあり得ない”というのが基本的常識である。つまりこの世に存在している時に魂を持たないただの物体が、魂の結晶体であるべき霊体となってこの世に現れることは矛盾しているという考え方である。欧米の心霊学は当然キリスト教学の延長線上にある思想の影響を受けて構築されているわけであり、その点で言えば至極当然な帰結であると言える。
しかし日本の場合、付喪神の思想が検証もされずに受け入れられていることから分かるように、物体も使われていく中で次第に念を帯びて生命を宿すという発想がある(使っている人間の念が籠もるとは解釈されているものの、あやかしとなった時には既にその念は使用者のコピーではなく、一つの人格を帯びているのだから独立した存在と言わざるを得ない)。汎神論的思想の土壌で生まれてきた日本人ならではの発想であり、また万人に十分説得力のある理論でもあるだろう。
この作品はまさにその日本的発想の中で生まれた怪異譚であり、それが工業先進国の象徴の一つである新幹線にまで援用されているところが、非常に素晴らしい着想であると感じる。また作品の締めくくりがこの愛すべき情緒的霊性に適合しており、しみじみと感じ入るところがある。現代の設定ではあるが、古典的怪談の擁する美しい精神性を持っている良作であると思う。


『見上げる二人』
冒頭部分がいわゆる“投稿怪談”のような書き方で始まるのであるが、話の展開はいかにも理性的で端正な文章なので、電波な印象は皆無である。むしろ冷静すぎて、無音状態の中で淡々と出来事が進んでいるという印象すらある。
電車に乗って車外を眺めていて、いきなり霊体ではないおかしな存在を見つけるという話はそこそこの数のある体験談である。しかもそういう話の多くは、なぜか河川敷での目撃なのである(一番多いのは“河童”と思しきものを見たという例だからなのかもしれないが)。だが、この作品の体験は非常に希少なものである。電車が止まってその怪しいものを長時間じっくりと見ることが出来た点、そしてそれを多くの乗客が目撃している点が、非常に珍しいと言えるだろう。そしてその怪しい存在の容姿が何ともおかしい。もしかすると人間が扮装している可能性も十分考えられるのであるが、なぜ二人して雨の中をそのようなおかしな格好で河原に佇んでいるかの目的が皆目見当がつかないために、その存在はやはり“あやかし”と言うべきであろう。最後の乗客の言葉は、悪しき怪談語りの典型である“怪異を無理矢理こじつけて解釈する”パターンではあるものの、この作品の場合はこれが却って薄気味悪さを増長させている。禍々しいと自分だけが思っているのではなく、周囲も同じことを意識していることを知るのは“恐怖の再認識”という意味で恐ろしいものである。よく出来た作品であると言える。


『なづき』
怪談というよりも幻想譚と言いきった方がしっくりとくる作品である。架空の町で起こるエピソードは、それを成り立たせる設定の多くが現実離れした内容であり、またある種の寓意を含ませているのではないかと思わせるものであり、良い意味で手垢にまみれず現実から乖離した世界のものというように印象付けられた。また散りばめられた比喩の斬新さやその他のレトリックの巧みさも、この作品全体から漂う不思議な雰囲気を確立させる効果をもたらしていると言えるだろう。漠とした展開でありながら、非常に鋭角的な書き方がなされており、まさしくイメージを先行させつつ独自の世界を構築させている作品である。
死にまつわるエピソードであるが故に怪談めいた印象もなきにしもあらずであるが、広義の怪談の範疇からも外れていると言えるだろう(作られた世界そのものが現実から大きく乖離しているように見えるため、あやかしが現実や常識に対立する存在として作品中で活かされていない。要するに、作品で構築された世界そのものが非現実的に見えてしまうために、あやかしがあやかしとして成立し得ない状況に陥ってしまっている)。個人的には、杳とした感触が好みではあるが。


『何もできなくて、ごめんなさい』
実話怪談はその多くが“人の死”を前提に成り立つが故に、それに関わるエピソードに対してナーバスなぐらいに敏感である。その最たる姿勢として挙げられるのが、多くの人が亡くなった事故や災害、有名な事件に関連する怪異に制限を掛ける“暗黙の了解”である。つまり多くの人が記憶する直近の事件事故に関する怪異を取材しても、それをしばらくの間“お蔵入り”させて公開しないのである。その光景の生々しさや被害にあった者の遺族の感情を考慮して、それを公の場に出すことを憚りタブー視しするのである。某航空機の事故にまつわる怪談を例とすると、約10年間封印され続け、公開されても明確にどの事故であったかをぼやかして書かれたし(平山夢明氏が『超怖い話6』で発表した有名怪談)、稲川淳二氏はライブでは早い段階で語っていたが、書籍の中で公開されたのは21世紀に入ってからということになる。ある程度時間的風化を経てから(“暗黙の了解”としては10年が一つの目安のようだ)公開するのが、実話怪談書きとしてのモラルと言っても間違いないところである。
この作品は、某重大電車事故の発生をほぼ同時に感知した、いわゆる予知夢体験の一種であるが、上に書いた“お蔵入り”の時期を完全にフライングしてしまった内容になっている。“暗黙の了解”というモラルの問題であるから、やった者勝ちの側面は否めないが、実話怪談読みの立場から言えば当然「アンフェア」という印象が強烈に残った。作者に相当の躊躇いがあり、悪意あるひけらかしが目的でないのは十分理解できるが、どうしても納得がいかないというのが本音である。


『漆黒のトンネル』
トンネルの怪談も相当の昔から定番として伝えられてきたものである。常時暗くて狭い、ある種の水場である、山を掘削して通しているなど、怪異が起こりやすい条件をこれだけ十分に満たしていながらどこにでもあるポイントはそれほど多くないと言えるだろう。
この作品もおそらく実体験を元にしたものであると推察するが、トンネル怪談としては非常に希少価値のあるものであると断言できる。トンネルにまつわる怪異は、そのトンネルに入らないと起動しない、つまり様々な怪異のパターンがあるが、その全てはトンネル内で起こったエピソードばかりなのである。ところがこの作品のケースは、トンネルに入る直前に異変を察知して引き返し、再度行ったところで異常に気付き、結局問題のトンネルには一度も侵入していないのである。しかも普段の道路の光景と全く違う、いわゆる異界に迷い込んだというパターンの怪異と考えたとしても、そのアクセントとしてトンネルの異変に気付くというのは記憶にない。とにかくトンネルに入る前にその無限に続く闇に気付いて引き返したという例は稀な怪異である。状況の説明や行動の描写などに少々舌足らずな表記が見受けられるが、時系列的な記録としてはおおむね過不足ない内容になっていると思うので、良い感じの実話怪談と見てよいだろう。