『てのひら怪談』作品評の十二

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

『んんーげっげ』
オノマトペは使う人のセンスによって生きもするし死にもするのだが、タイトルからビシッと決まるとやみつきになる。この作品の魅力の幾分かは、間違いなくこのオノマトペによって生み出されていると言っても過言ではないだろう。呼吸器の病気を患っているのではないかと思わせる不快感を伴うこの表記は、常套句的なオノマトペとは違い、良い意味で読者の目に引っ掛かりやすい。そしてそれが最初から提示され続け、最後の怪異の気付きに直接関連付けられるのだから、インパクトの面でも非常に効果的である。
この不快な擬音と共に効果的なのが、文同士の繋がりの空疎さであろう。接続語が全くと言っていい程ない文の流れは密度を感じさせることもなく、いわゆる行間が非常に空きすぎているように感じる。このパサパサした流れが、話者のTさんに対する距離感を示している。特に会社におけるTさんの状況を説明した文などは、リストラ寸前の人間に対する哀れみ半分蔑み半分というような感情が如実に出ているように思う(これが最後の一行の「後ずさり」に結びついて、何とも言いがたい嫌な雰囲気を作っている)。淡々とした構成でありながら、虫酸が走るような負の感情が蔓延しているという印象を強く持った。ネタとしてはありきたりなのだが、これらの付加価値が付くことによって読ませる作品になっていると言えるだろう。


『いこうよ、いこうよ』
自殺の多発ポイントにはそこで自殺した者の霊が棲みつき、自殺志願者はもとよりそうでない者まで引きずり込んで死に至らしめるという話が、まことしやかに存在する。実際霊能者の多くはそういうスポットがあると断言しており、心霊に興味のない人の間でも噂として流布していると思う。
この作品はその噂を元に作ったストーリーであり、どちらかと言えば、ありきたりの部類に入るだろう。だが、このような“よくある話”ほど、作り手としては趣向を凝らしたりさまざまなトラップを仕掛けたりしないといけないので、評価の割の合わない苦労があるものである。この作品の工夫は、やはり声の主を“子供”にしたところであろう。自殺に追い込む霊といえば当然悪意に満ちた存在として認識されるのであるが、それが子供の霊になると途端に印象が変わる。地縛霊というよりも通り魔的に浮遊して、たまたま犠牲者を生み出したというイメージの方が強い。その分だけありきたり感は薄らぐことになり、単なる自殺スポットの怪という図式から逃れることが出来ているように思う。霊に向かって怒鳴りつける部分が駅という公共の場では少々リアリティーを失っているきらいはあるものの、全体的にはしっかりとした流れが出来ているように感じる。


『夜寒のあやかし』
枯淡の境地とまではいかないものの、かなり枯れてさばけた、いわば酸いも甘いも噛み分けた中高年オヤジが遭遇するあやかしである。怪異の内容もそれほど劇的なものでもなく、恐怖を覚えるようなレベルではないのだが、ただ哀愁を帯びた中高年の姿とだぶらせると何か妙な具合に落ち着くのである。帰宅後に部屋着に着替えながら「そういうと、帰り道でこんなことがあったよ」とか前口上をして語り出すような、そういう味わいを持つ怪異であり、その雰囲気を最後まで壊さずに飄逸の風を醸し出していると言えるだろう。
思うに、シチュエーションとしては現代の暗い世相を反映させているように見えるのであるが、文体自体が飄然としている分だけ社会問題としての深刻さは薄く、むしろ時代の枠にとらわれない、世知辛い世の中に棹さすわけでも拗ねるわけでなく生活する庶民の垣間見たあやかしという印象の方が強烈に残った。具体的に言えば、体験者の心情部分は全く書かれてはいないが、江戸期の怪談話にあるような、夜半の帰り道に武家や商家が遭遇するあやかし談に限りなく近い雰囲気を感じた。良い味を出している作品と言えるだろう。


『東京駅の質問』
広義の怪談の条件は満たしているとは思うが、どちらかと言えば、ファンタジー幻想文学のカテゴリーが色濃い作品であるだろう。怪人・魔人と呼ぶにふさわしいキャラクターを冒頭から登場させることによって不思議な異空間を作り出すことに成功しているが、それが東京駅という固有名詞の中で成り立っているところに鮮烈なイメージが残る。例えばこれが架空の場所であれば純粋なファンタジーという印象しかないだろうし、過去の時代の話であれば幻想文学の範疇が妥当という意見になると思う。都市伝説的な色合いが残っているからこそ“日常の異界”の雰囲気を漂わせることが出来たのではないだろうか。
怪人によって学生が消される場面は少々芝居がかっている感が強いが(これが純粋に怪談として認めづらいと個人的に感じる部分だが)、これ以降の展開は都会の喧噪の中で繰り広げられる小宇宙のような、そこだけ時間が止められた美しい記憶の結晶で包まれた場面という印象が強い。日本の主要ターミナルでありながら古風な煉瓦造りの建造物でもある東京駅のイメージがあるからこそ、やはり成立しうるシチュエーションだと改めて思うわけである。作者の魔法に魅入られてしまったということだろう。


『置き引き』
とにかくイメージの羅列という印象が強く、前半部分はまだストーリーの展開があるものの、後半になると時系列の存在は認められるが、厭な記憶がフラッシュバックされているような状態であり、非常に抽象的で敢えて意味を持たさないように状況が流れていると言える。めまぐるしく展開する場面から得られるイメージはひたすら“気味の悪いもの”であり、悪夢に近いものがある。だがそれは主人公がアタッシュケースを置き引きしたことに対する懲罰的なものは含まれていないだろう。むしろ置き引きという行為はこの重苦しいシュールな世界へ入り込ませるためのきっかけに過ぎず、その電車内で次々と起こる怪しい現象そのものがこの作品の本質であると言ってもいい。逃れることの出来ない厭な夢を見続けているような感覚を味わうことこそが、この作品にとって一番良い読まれ方であるだろう。感性とイメージで溢れかえった夢魔のような作品である。


『白昼』
実話怪談のリアリティーは、過不足ない(と感じられる)情報によって支えられていると言っても間違いない。そこで起こった怪異に関連する情報が正しく読者自身に伝わっていると認識されることで、そのストーリーは俄然真実味を帯びてくる。逆に、曖昧な表現や情報の欠落があると意識すると、途端にその作品は色褪せてしまう。また“記録”としての側面を持ちながらも、きちんとしたストーリー展開がないと(例えば“あったること”を箇条書きにして提示するようなやり方)、読ませる力がないとして斬り捨てられる。いかに破綻なく怪異を展開させるかが、作者の技量というものに直結するわけである。
この作品は800字という制限の中で、怪異を存分に展開している。実話怪談のオーソドックスなフォーマットに従って展開しているとはいえ、そこにコンパクトに納められた情報量とそれを自然な流れのまま描写して読ませる文章が巧みであるが故に、充実した内容であると言わざるを得ない。特に体験者のみが遭遇した怪異で止まらず、別の人がほぼ同じ地点で同じような体験をしているのを体験者本人が目撃するという(ここで“踏切”が強調されているのがまたテクニックである)、まさに実話の醍醐味まで少ない制限の中で書ききっているのは驚異である。小さな怪異ではあるが、隙の全くない実話怪談と言っても良いだろう。800字という字数制限を考えると、この作品で扱われる怪異ぐらいのレベルが最も適切ではないかとも思う(ネタが強烈になればそれだけ費やす字数も増大する)。全てを考慮すると、ほぼ完璧に近い作品であるのかもしれない。