『てのひら怪談』作品評の十一

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

『真夜中の散歩』
およそ怪談らしからぬ飄々としたトピックから始まる作品であるが、タイトルから怪異の肝がどのようなものであるかはおおよそ察しがつき、特段ひねりやオチがあるようなストーリーにはなっていない。むしろこの作品の妙味は、冒頭部分から醸し出す日常らしい日常の中で起こった不思議な体験を誇張も衒いもなくきちんとあるがままに書ききることで、却って異界への入り口がどこにでもあることを示そうとしているところにあると思う。そのあたりを斟酌して読むと、あやかしに対する体験者自身(プロフィールを読むと作者自身の実体験に基づくものと推察できる)の一番最初の気付きが“花火大会でもあるのか”という相当脳天気なものであったとしても、というよりもそういう馬鹿馬鹿しい内容であればこそ、ますますリアルな不思議感が漂うと言っていいだろう。
またあやかしに対する後日談が一切ない点も、この作品の雰囲気に非常に似つかわしいポイントである。詮索らしい詮索もせず、また変な解釈も施すこともなく、ただひたすらその場所を避けてしまえばいい、なかったことにして忘れるようにしようという意思だけが働いていることがありありと分かるからこそ、日常の中で突発的に起こった怪異という側面が色濃く出ていると言えるだろう。実話怪談ならば「もっと調査しろ」と怒られそうだが、怪談としてはこの曖昧然とした態度も一つの魅力なのである。


『キミは本物?』
心霊スポットにまつわる都市伝説として最も有名なネタを上手く処理した内容であると思う。ただしタイトルで明確にオチの中身を示しているので、驚くようなひっくり返し方であるとは言い難く、正直なところインパクトという点では群を抜くというレベルには至っていないと言えるだろう。また非常にテキパキとした展開としっかりとした描写で内容が書かれているので安定感はあるものの、どうしても都市伝説のパターンを完全踏襲しているために新鮮味のある展開という印象はなかった。正直なところ、しっかりとしているが目新しさや奇抜さに欠けるということに尽きるだろう。オチ狙いで話が進められていると思われる展開で先が読めてしまうのは、やはりいただけないわけである。
ただし、都市伝説としては行方不明になるべき友人が無事帰還できたことに安堵しながら、その裏で疑心暗鬼に陥っているというネタはなかなか面白い着眼点であり、微妙な人間真理の持つ闇の部分に巧く焦点が当たっていると言える。特に伏線として“友人だと思ってついていった相手が実は侍の幽霊だった”という記述がしっかりとあるために、疑念に感じる者たちの不安感を読者も共有できるところが心憎いポイントとなっているだろう。タイトルも含めて、オチが判るのがもう少し先延ばしになっていれば、なかなかの好作品になっていたと思う。


『秘密基地』
個人的に懐かしさの方が先に立つ“秘密基地”という言葉の響きに浸りながら読み始めた作品である。まさに昭和時代の名残を漂わせるノスタルジックな感傷が先走り、何もかもがセピア色の風景の中で起こったのではないかと思うほど、具体的な怪異が起きているにもかかわらず、良い意味で何となくディテールが薄ぼんやりしているような印象を持った。冷静になって考えれば非常に不気味な怪異なのであるが、子供時代の記憶というフィルターを通して語られる内容は奇妙ではあるが、決して恐怖感を抱くような雰囲気はない。たとえ現れた背広の男が自殺者の霊であったとしても、ダイレクトな薄気味悪さを感じることは少ないように思う。
ところがここから一転して、子供特有の残酷さが表面に現れる。自殺者の霊との遭遇以上の恐怖感がそこにある。友人の死と霊との因果関係はある種のシンクロニシティとして片付けられるとしても、最後の一行における主人公の感想だけは何とも薄ら寒いものを感じざるを得ない。前半部分に懐かしい無邪気な子供時代の幻影を垣間見ていればいるほど、この冷酷な言葉のギャップに愕然とすることになる。おそらく前半部分の回想だけで話が終わっていればさほどのインパクトはなかっただろうが、落としどころのギャップによって冷え冷えとした心象を与えることで、怪談として奥行きが深まったと言うべきだろう。


『錬想』
仏教の世界観では「愛」は妄執であり、特に「愛別離苦」は八苦の一つととされている。無条件に愛することの出来るものを失うことはまさに苦しみであり、その苦しみから逃れることが出来ずに妄執にさいなまれるのが人間の弱さである。だが、それが度を超してしまうと哀れさと同時に、その妄執ぶりが狂気へと変貌していく。この作品の持つ怖さは、その狂気が沸点にまで達してしまった夫婦の奇行ぶりであり、それが決して他人事ではない、もし自分たちが同じ立場になったら同じような状態に陥ってしまうのではないかという“心の闇”を嫌というほど見せつけるところである。
少々過剰であるものの平静である夫婦の言葉が徐々に狂気に彩られていくプロセスが非常に丁寧に描かれており、心が破綻して壊れていく様子の痛々しさを読者も体感することが容易である。この落ちていく部分こそがこの作品の肝であり、ここがリアルであるが故に強烈なインパクトをもたらすことに成功したと言えるだろう。
そして夫婦の最後の言葉によって、実は彼らは愛する対象そのものを見失っており、ただ妄執を成立させるためだけに妄執にすがりついている事実に直面する。この部分があるからこそこの作品はやるせなく、暗澹たる気分の分だけ闇の色を濃くしていくことになるのである。


『カミサマのいた公園』
子供の世界は、大人の世界の縮図であると同時に、独自の世界観を持った存在でもある。単純に視線が低い位置にあるというだけはなく、世の中の常識、つまり大人の世界の慣例では割り切れないものを包含しており、その豊かな想像力の中で壮大な世界が繰り広げられることすらある。それは大人から見れば馬鹿げた発想から生まれたホラ話かもしれないが、子供たちからすればリアルな世界の裏側として認識され得るものなのである。
この作品は、大人目線で読んでしまうと実に荒唐無稽でしっかりとした脈絡もなく展開されているストーリーというようにしか見えないだろう(実際私自身も初読時には“とりとめのない話”という印象を持ってしまった)。だが主人公である兄妹の視線に置き換えるように読むと、しっくりとくるのである。兄妹が見た白い犬は“常識的”に考えれば野良犬であり、おばさんの言ったように毒団子を食ってそこで朽ち果てたと判断していいだろう。だが異形のものに対する純粋な畏怖の感情によって、兄妹にとってはカミサマ(このカタカナ表記が絶妙)としての価値ある存在と見えたのである。「カミサマたべられた」という妹の言葉は、まさに子供の世界から見た“大人の事情”の帰結を直観的に言葉化したものであるだろう。この言葉がおふざけのギャグにしか見えない間は、この作品の怖さの本質に辿り着くことは不可能という印象を持った。子供の感性でしか見えない恐怖というものも存在するのである。


『人を喰ったはなし』
非常に奇抜な発想の作品であり、タイトルも含めて気が利いていると言えるだろう(若干ネタバレなタイトルではあるが、それよりもプラスの効果の方があると感じる)。突拍子もない話ではあるが、嗅覚の部分を強調することで、これが単なる思い過ごしではなく怪異の整合性を保ちうるように構成されている。そして話者の嗅覚麻痺を最後に持ってくることで、この一連の怪異が未だに完結しない、むしろ次のステージが間近に迫っていると予感させる。このあたりが非常に優れた怪談であると感じ入るところである。
だがこの作品の最大の魅力は、上に挙げるような新奇さそのものではなく、そのような目新しさの中にしっかりと民俗学的な解釈を踏襲した内容が絡み合っているところである。例えば、食べ物の名前を書いた紙があたかも本物の食べ物のようになる発想。これは“形代”をモチーフとしていることは明らかであり、それ故に男性アイドルの名前を書くことで本当に“人を食う”行為となってしまったと解釈していいだろう。そしてその代償カニバリズムによって引き起こされる悲劇は、おそらくその味に魅せられて欲望の赴くままむさぼった彼女の姿であり、狂気に陥り失踪する結末である。この二つの行動はまさに古来より伝わる“人が鬼と化す”プロセスそのものなのである。つまりこの作品は発想は奇抜ではあるものの、プロットは古来の伝承そのものなのである。この点でも傑作と呼ぶにふさわしい作品であると思う。