『世界の心霊写真』

世界の心霊写真 ~カメラがとらえた幽霊たち、その歴史と真偽

世界の心霊写真 ~カメラがとらえた幽霊たち、その歴史と真偽

時折思うことだが、日本は心霊写真に関して言うと、超大国として存在しているのではないかと感じることが多い。1970年代から始まったオカルトブームのコアな主力は心霊写真であったし、またそれが特殊ではあるものの市民権を得て、テレビなどのメディアで相当数取り上げられたわけである。大体“心霊写真”という心霊科学の術語が、ごく一般的な個人の会話で何気なく飛び出して来るという時点で、その認知度の高さはうかがい知れるだろう。
ところが、この心霊科学の本場であるヨーロッパをはじめとする国々では、心霊写真がどのような扱いであるかは、実は分かっているようで知らなかったのが事実である。諸外国のオカルト翻訳本も少なからず出回っているのであるが、心霊写真に特化された本はお目に掛かった経験もなく、オカルト全般を取り扱った本の一部で紹介されるのが精一杯という印象であった。むしろ海外の心霊写真といえば、70年代のオカルト黎明期に、雑誌などで取り上げられた古典的心霊写真を記憶している程度というのが実際のところである。それ故に、今回登場したこの本は、今まで曖昧な扱いで出されることの多かった“海外心霊写真”をしっかりとした情報付きの印刷物として紹介している点で、まさにコアなファンであればあるほど革命的な衝撃を受けると言ってもおかしくないと思っている(私自身がまさにそうであったわけだが)。
この本が革命的である点は、まずその印刷の美麗さである。心霊写真といえば、雑誌で取り上げられるのが一般的。しかもモノクロの粗悪な印刷で、どこに幽霊が写っているのか、目を皿のようにしてみても分からないということもしばしばのレベルのものが当たり前であった。この本は、それに対して、非常に上質の紙を使い、どこに霊が写っているのかが分かることを前提に画像が調整されていると考えてよいほど、鮮明に見えるように作られている。この点ひとつ取っても、読者のニーズを事前に把握して作られている良書であると言い切って良いと思う。
そしてさらに重要なのは、この写真に関する著者のコメントを正確に翻訳している点である。心霊写真の歴史を代表する写真に対する著者の冷徹なコメントは、まさにビリーバーだらけと言ってもおかしくない日本の心霊写真本と比べると、あまりにも違いすぎる。明確な否定語は少ないが、終始懐疑的な立場を崩さずに写されたものに対してコメントを書く姿勢は、日本のそれとは全く違い、非常に好ましいものであると感じた。書かれている文章内容が、日本の心霊写真本のように全肯定的な書かれ方であったり、写っている霊体の種類などの因果律的な解説であったならば、おそらく興味は半減していただろう。おどろおどろしさを求めようとする読み手にとってはがっかりな部分かもしれないが、「心霊科学のための客観的な物証」としての心霊写真紹介であれば、むしろこのぐらいの客観性がなければおかしいと思う。
個人的な意見としては、現在の日本における心霊写真に対する認識というものは、まさしく日本的な要素によって成り立っていると言わざるを得ない。日本最初の本格的な心霊写真集であった中岡俊哉氏の『恐怖の心霊写真集』における著者の言葉を読むと、心霊科学において霊魂の存在を証明するための物的証拠としての心霊写真の存在意義が強調されている。実は、日本の心霊写真ブームの黎明期においては、欧米の姿勢に倣って、客観的な真贋を見極める態度を重視した部分が押し出されており(2冊目の心霊写真集では、シミュラクラの具体的な例も出されており、霊のように見えても違うものがあることが提示されている)、何でもかんでも霊であるという姿勢はあまりなかったのである。しかし心霊写真がマスコミでもてはやされ、テレビ番組で心霊写真紹介がレギュラー化してきた時期に呼応して、地縛霊や浮遊霊、先祖霊や守護霊といった特殊な術語を駆使して写真と撮影者との因果関係ばかりが重視されるようになり、次第に供養とかお祓いといった呪術的・宗教的なプロセスばかりが強調されるようになってしまったと見ている。即ちこれが日本的な霊性に基づいた、一種の信仰心の中に取り込まれてしまった「縁起としての心霊写真」という認識に至る経緯とみなしている。日本人の霊に対する深い信仰心が、霊の写り込んだ写真という物的証拠を、科学の対象ではなく、信仰の対象と意識してしまったが故の変わり様であったと言える。
(ただし一言だけ添えておかなければならないのは、供養やお祓いについては、中岡氏サイドが意図的に煽ったのではなく、心霊写真を投稿してきた人々から自然発生的に起こってきたものであるということである。読者からのニーズに突き動かされて、供養やお祓いをするようになったのが、いつの間にか主客転倒の様相となってしまったというのが真相のようである。マスコミに登場するようになってビジネスチャンスとした感もゼロとは言いがたいが、ただ確信犯的にそういう煽りをおこなったというのは事実ではないという見解である)
現在においても、結局のところ、日本的な心霊写真(ビデオも含む)に対する認識の主眼は、霊的存在の有無ではなく、撮影関係者と霊の因果的関係性、つまり祟りや供養といった信仰に起源を持つ概念にあることは明白である。そのような心霊写真観の中で、このような欧米の本格的な心霊写真に関する翻訳書が世に出たことは、意味のあることである。この一冊で、日本人の信仰心に繋がる心霊写真の見方が変わることはないだろうが、しかしこういう心霊に対する考え方・見方が存在することを知ることで、少なからず将来に影響を受ける人間が出てきてくれる希望はある。私のような年季の入ったロートルでも、この本を手にしたことは非常に有意義な体験であったと断言したいところである。心霊に興味を持つ者はすべからく、この本の持つ説得力に身を晒して読むべきであると思う。