『私は幽霊を見た 現代怪談実話傑作選』

1940年から1990年にかけての怪談文学の系譜をしっかりと位置づけながら、そのマイルストーンとなるべき作品を多く収録したアンソロジーである。この1冊を読めば、昭和後期の怪談文学の流れを俯瞰出来ると言っても、あながち間違いではないだろう。それだけ意識的によく精選された作品が揃っていると言える。
特に豪華な布陣なのは、昭和30年代の『大法輪』掲載の作品を中心としたパートである。大物小説家から著名文化人までがずらりと並び、なかなか味わいのある実話が目白押しである。なかでも、田中河内介にまつわる怪談の核となる徳川夢声・池田禰三郎の著述、怪談文学史において重要なキーパーソンとなる長田幹彦の体験談、そして当時既に売れっ子作家だった遠藤周作三浦朱門が同時に体験した怪異を書いた2作品……と連続で読ませてくれる構成は、ある意味信じられない夢のような競演である。いずれも怪談文学だけではなく、戦後怪談史において燦たるトピックを持つ顔ぶれ・内容であり、これを労せず読めるだけでも感涙ものであると言うべきである。(特に遠藤・三浦の作品は、その作品発表自体が怪談史に残るほどのインパクトを持って認知されているものである。これを読めるだけでも幸せな体験である)
そして、この三連続の怪異の次に控えているのが、ジュブナイルから唯一選ばれた村松定孝の作品である。しかしながら、この怪異譚は子供向けに書かれているという条件以外は、全く妥協というものを知らない出来映えであり、大人が読んでも十分耐えうるだけの怪談に仕上がっている。さらにこのジュブナイル本で紹介された大高興の体験談とその強烈なインパクトを持つ幽霊のスケッチが、次に控えている。おそらくこの部分が今回のアンソロジーの目玉であると言っても良いだろうし、実際、アンソロジーの表題はこのジュブナイル本から取られているわけである。多くの40代以上の人にとっては懐かしい、当時まだ生まれていなかった人にとっては伝説的怪談を目の当たりにする僥倖であろう(しかし、当時のジュブナイル本で肝を冷やした読者の殆ども、さすがに大高氏自身が書いた作品までは目を通していないだろうから、ある意味新鮮味があるわけである)。
この後に続くのが、いわゆるオカルトブームと共に急速に頭角を現してきた面々がメインとなる。要するに村松氏の作品を中間地点とみなして、作者の印象が大きく変わる。前半はやはり“小説家”という肩書きを持つ者が並ぶが、ここから先は平野威馬雄(仏文学者の肩書きを持つ学者)、中岡俊哉、新倉イワオ(この二人はテレビ業界のブレーンとしても活躍)あたりに代表される、超常現象のエキスパートという印象が強い面々が顔を揃える。正直なところ、今まで連綿と続いてきた“文芸”色はかなり薄れてきていると言わざるを得ないだろう。それ以上に顕著な点は、怪談(主に心霊となる)の発信源が、テレビをはじめとするマスメディアに集約されるようになったところである。特に中岡・新倉両氏の活躍は、怪談そのものの存在感を大きく変えてしまったという意見である。このアンソロジーで取り上げられた両氏の作品は、どちらも代表作と呼ぶべきものではない。“文学”という条件の中で選ばれるとなると、やはり怪談史の巨人も違和感があるということになるのだろうか。中岡氏であれば心霊写真、新倉氏であれば「あなたの知らない世界」の番組そのものが、やはり代表作品となるところである。(この企画を初めて目にした時、ある種最も意地悪な気持ちで期待していたのは、中岡氏がこの“文芸”アンソロジーに登場するのか、登場するのであれば東氏は何を出してくるのかであった。有り体に言えば、同じ怪談実話であっても、それほどまでに距離感があるというのが個人的な意見である。しかし東氏の“落としどころ”は脱帽ものであった)
1970年代以降のメディアの勢いは相当なもので、このアンソロジーでも80年代はほぼ「空白の時代」になってしまっている。怪談文学史的には80年代は「ホラーの時代」であるが、結局“実話”は殆どテレビの格好のネタとして使われ、文壇から発信されるような強力なものは出なかったというのが、歴史的事実であるだろう。東雅夫という名アンソロジストですら見つけることは叶わなかったわけである。個人的には、この空白期間を怪談文芸の断絶とみなしており、平成に登場する『新耳袋』と『「超」怖い話』はその断絶の反動を原動力として登場したのだという意見となる(このあたりは怪談史観の問題であるので、ここでは割愛)。
そして最後の2作品であるが、片や「?」片や「!」という感じ。「?」は石原慎太郎の作品。作品そのものに対してではなく、怪談史的に石原氏と言えば有名な「幽霊タクシー」の話があるはずで、何故そちらが選ばれなかったのかという疑問である。新聞寄稿のコラム的な小品を避けて、より文芸的な怪談を選択したのか。それともこれを出してくると、年代的に遠藤・三浦・柴田といった文豪系の作家ばかりが固まることを避けて、最後半に来るように配慮したのか。このあたりは個人的なミステリーである。
それに対して「!」の稲川淳二『生き人形』は、誰もが納得のトリと言える。いわゆる怪談語りの調子で書かれている昨今の“稲川怪談”と比べるとやや軽い印象であるが(この話の出典となっている本自体が、朝日ソノラマの月刊ホラー漫画雑誌『ハロウィン』で連載されたものをまとめた内容なので、まだ文章スタイルが確立されておらず、また当時のキャラのノリで作られているところも大きい)、とにかくこの伝説的エピソードの初出本であり、同時に最も重要な底本である。現在封印状態となっている内容だけに、こういう形で原典が公開されることは非常に素晴らしい出来事である。さらに怪談史的に言えば、70年代以降のメディア主導の怪談・怪奇物の集大成であり、稲川淳二という人材を通して昭和から平成へ怪談のムーヴメントを継承・発展することを可能ならしめた傑作である。これ以上に、昭和後期の怪談実話集の締めくくりとして相応しい作品はないと言えるだろう。
色々と書いたが、結論としては、怪談史を紐解く中で重要な資料を取り揃えた文献と位置づけてもおかしくないほどの出来映えということ。東氏自身が精選した、明治から昭和前半までの怪談実話アンソロジーと併せて読めば、なおのことその系譜が理解できるだろうと思う。