『厭怪』&『无明行路』

怪談というジャンルは、負の感情であったり死であったりを多く扱うジャンルであり、その点で言えば、どうしても“業”というものを強烈に背負う部分がある。【超−1】出身の怪談作家の中でこの“業”を最も色濃く反映させた作品を出してくるのが、今回取り上げたつくね乱蔵氏と久田樹生氏ではないだろうか。ただし、両氏の描く“業”はまるで異なる概念であり、またそれを作品の中で生かすためにそれぞれの書き味も変わってくる。今回は1つの概念を巡って紡ぎ出される個性というものを軸にして評してみようかと思う。

恐怖箱 厭怪 (恐怖文庫)

恐怖箱 厭怪 (恐怖文庫)

つくね氏のもたらす“業”とは、まさに人が生きていく中で積もりためて生み落としたものと言える。やむにやまれぬ事情から踏み入ってしまった、小さな希望を追うさなかに抱え込んでしまった、己の欲望を叶える代償に降りかかってきた……人間であるが故の過ちによって怪異を呼び起こし、取り返しのつかないものにしてしまうような作品。あるいは怪異を通して人間の最も醜い側面を見せつけられる、まさに“業”が生み出される瞬間を描いたような作品。今回の初単著でも、このような展開の作品が結構多く散らばって入れられている。はっきり言ってしまえば、非常に読むのが辛いと思う作品が多かった。ただその辛さは怪異そのものの強烈さではなく、その怪異に関わった人物の織りなす感情の澱のようなものに対する嫌悪であったり悲哀に近い印象である。しかもその陰に籠もった感情は、読み手自身の心の奥底に潜む願望に近ければ近いほど、おぞましくそして悩ましくこびりついてくる。“厭”という言葉に込められたメッセージは、多分体験者に向けられると同時に読み手自らにも手厳しく降りかかってくるからこそ、否、そのように著者が仕向けてきているからこそ“厭”と感じてしまうことになるようにも思う。人生を長く生きていれば確実に身に覚えのある感情であるが故の、近親憎悪とでも言うべきかもしれない。
つくね怪談の真骨頂は、それ故に、登場人物の描写にある。掌編が多いためにステレオタイプのような人物像である場合もあるが、それでもなお、その人物なりのキャラクターが前面に出てくる印象が強い。当然であるが、人物が活写されるからこそ、その怪異に対するさまざまなリアクションが読み手にまで伝わってくる。むしろ怪異そのものよりも、登場する人間を描くことの方に力点が置かれていると思うことが多い。今回の作品の中にも、読み返してみると、怪異よりも先に体験者を思い浮かべるといったものもあったわけである。しかしながら、怪異の表現を疎かにしているのではなく、つくね怪談は“業”を負ってしまった人物を描くことによって、怪異の深淵を掘り下げていくことを求めているところが明瞭に見て取れる。おそらく“あったること”としての怪異だけ書けば類話の多さ故に埋もれてしまうような話も、人物描写によって影を付けられて深みを帯びてくるとすら感じる。「怪を通して人を描く」だけではなく、その描かれた人物像によって怪異をより強固なものに変えることにさえ成功していると言えるかもしれない。時にシニカルに時に慈愛に満ちたまなざしを持ってしっかりとキャラクターを造形し、それを怪異と絡ませることによって読み応えのあるドラマを形成することに長けた著者である。

無明行路 怪談真暗草子 (竹書房ホラー文庫)

無明行路 怪談真暗草子 (竹書房ホラー文庫)

つくね怪談の“業”が「人間の愚かさ」に端を発するものであるのに対して、久田怪談の“業”はまさしく「人智を越えた存在のもたらすもの」である。今まで刊行された単著を読めばすぐに判るが、久田氏の作品にはこの手の話が嫌というほど登場する。少々ネタバレになるが、今回の作品も体験者自身によって引き起こされたというよりも、そのあずかり知らないところで怪異の発端は起こり、そして体験者自身が生まれ落ちた瞬間から背負うことになる“業”として怪異が起こっていくわけである。本人がどのようにもがこうとも外れることのない宿命であり、生涯掛けてこれと向き合い続けなければならない。この作品に登場する体験者のような“業”を持った人間というのは稀であるだろう。自らの選択によって奈落に落とされる“業”と比べれば、読み手が身につまされることは少ないはずである。しかしその強烈な怪異の洗礼はやはり寒気を催すものであり、その逃れることの出来ない因縁の凄まじさに恐怖することになる。何をやっても無駄……という究極の虚無感のもたらすどうしようもない感情は、当の本人だけを蝕むものではないと思う。
体験者自身すら理解出来ない“業”を表現するためにはやはり人物像は希薄であるべきと言うか、久田怪談の人物造形は非常に淡泊である。個性を示すものはあっても、それが怪異と結びつくということは殆どなく、あくまで固体識別のためにだけあるような気すらする。今作でも複数名の体験者が登場するが、いずれもキャラクターが立っているとは言いがたい。しかし、久田怪談の核となる怪異の部分にとって体験者のキャラクターが必要であるとは思えないし、言い方は悪いが、そういった類の内容は本筋から外れてしまう元凶になりかねないとの印象すらある。まさしく人智の及ばない怪異を体現するために、人物像を敢えて消してしまっているとも取れるほどの徹底ぶりである。
今作の最も興味深かった点は、久田氏の「引き当ての良さ」を実感させる展開を見ることが出来たところである。おそらく最初の取材内容を読めば、まさか最後のこのような怪異が待ち受けているとは思えないし、普通であれば、何となくおまけのお話みたいな感じで食いつかないのではないだろうか。しかし、今作ではそれと同時に、久田氏自身も「引き寄せられている」という感触もある。展開途中でもあるのだが、糸が切れそうになってはすんでのところで繋がってみたり、あるいは意図的に取材がセッティングされているのではないかと思わせる部分もあった。正直に言えば、怪異の主体者が意識的に表に出てくることを望んでいるかのように感じた、久田氏自身も実は怪異である“業”によって動かされているという印象なのである。


いずれにせよ結論としては、実話怪談作家という者は“業”の中にあって、それと対峙しながら身を削ることを潔しとする存在であるということである。そしてそれが怪談作家の“業”なのである……という陳腐な意見で締め括っておきたい。