『人間は霊界を知り得るか』

人間は霊界を知り得るか

人間は霊界を知り得るか

副題にある通り、この本は“哲学者達が考えた「死後の世界」の研究”をまとめたものである。だからある意味オカルト・心霊研究と合致する内容でありながら、実際には本質からかなり離れたものがテーマになっている。この本に関して言えば、人が超常的な存在にどのようにアプローチすることが出来るのかを考える上で、非常に重要な問題を含んだ概説書であると思う。


哲学の取り上げるテーマの一つに「神」の存在がある。「神」とは一体何ものなのか、「神」は実在するのかといった命題を考察するのだが、当然それを導き出すプロセスは“思考”であって、絶対に“体験”ではない。霊能者が著す「神」や「霊魂」といったものが彼ら自身の体験(幻視)から導き出されたものであるのに対して、哲学者のそれは純粋な思考・論理で結論づけられたものである。それ故扱うテーマは同じ概念であっても、全く異なるアプローチだと言うべきだ。(もちろん、「見えないのだからいる訳がない」と言って感性的に否定したりする大多数の人とも、哲学者の視点は違うことは明らかである)


この本では何人かの哲学者(中にはダンテ・シェークスピアゲーテもいるが)が取り上げられているが、メインに据えられているのはプラトンとカントという二人の巨人である。


この二人の大哲人の思想体系には共通のバックボーンがある。それは「この世と言うべき人間界と、人智の及ばぬ且つ本質とも言うべき理想の世界の、二元論的世界観」である。平たく言えば、今人間がいる“この世”と、人間が知ることの出来ない“あの世”があり、人間にとって“あの世”の方が実質的に上位に位置するという思想である。プラトンはこの“あの世”を【イデア界】と呼び、カントは“あの世”を【叡智界】として神や魂の世界、ひいては“物自体”の世界とみなしている。この本ではこの思想を易しく説明し、二人がこの理想(理念)の世界をどのように認識しているかということを解き明かしている。要するに、この思想こそが心霊研究で言うところの“霊界”認識論としている。


プラトンイデア論も興味あるところであるが、この本の白眉はやはりカントの哲学的態度である。カント認識論の展開過程で登場する『視霊者の夢』の中で、オカルト史上最大の霊視者と呼ばれるスヴェーデンボリ(スウェーデンボルグ)をカントは徹底的に批判している。そして最大の著書である『純粋理性批判』によって、彼は理論的に人智の及ばぬ存在の認識を否定したのである。つまり霊や魂や神を人間は知り得ることが出来ないと結論づけたのである。ところが人間の道徳律の問題になった時、カントは知り得ることが出来ないと言った神や魂の存在を認めるのである。極論すれば「解らないとは言ったが、いないとは言っていない」という論を展開し始めたのだ。ここに、まさに人が超常的な存在と向き合う姿勢が端的に表れているように思うのだ。


心霊否定論者は「科学的に証明し得ないものはいない」という論理を拠り所としている。しかしそれは既にカントによって唱えられてきた理論なのである。だがそのカント自身も、認識できないが故に存在を否定することすら出来ないという結論なのである。「絶対にいる!」と声高に主張するのも愚かであると思うが、「絶対にいない!」と断言する態度も大して変わらないように思える。カントという知の巨人の理論を通して、そのあたりの事情を冷静に見ることも有意義なことなのかもしれない。


ちなみに超常的なものに対するカント的認識を日本で実践したのが、井上円了である(あの哲学堂において、カントは釈迦・孔子ソクラテスと並び祀られている)。円了も妖怪や超常現象とされる事柄をことごとく否定した。ただし彼は頭ごなしに否定したのではなく、理論的な説明を付けて否定をした。そして最も重要なことは、理論的に全く説明のつかない現象について彼は「真怪」と名付け、否定しなかったのである。僕は個人的にこのような態度こそが最も理想的であると信じている。現代民話的な言い回しをするならば「あったること」として認識しておけばいいのだ。


この本を読みながら、怪異を愛でる者としてどのように怪異に向き合うのが良いのか少しばかり考えさせられた次第である。