『隣之怪 木守り』

隣之怪 木守り (幽BOOKS)

隣之怪 木守り (幽BOOKS)

超有名連続ドラマの主役にとって“その後”の役作りは相当難しいものがあると聞いたことがある。あまりにもイメージが固定しすぎて視聴者はもとより周囲からもそのように見られてしまい、なかなかイメージの殻を破ることが出来ずにマンネリに陥るという悩み、逆にイメージの殻を早々に破ってしまいパワーを急速に失うという悩み、いずれにせよ、過去の栄光が足枷となってしばらくはもがき続けるという。『新耳袋』という偉大な足跡を残した木原氏の最新作も、そういう呪縛から逃れることが出来なかったというのが、読後の第一印象であった。

『隣之怪』で木原氏が“過去”を非常に意識したと思うのは“文章スタイル”である。『新耳袋』というシリーズは、多少の変化はあるものの、客観的な“語り”を基本スタイルとしてそれを一つの怪談の文章パターンとして確立させることに成功している。このパターン以上のものをたった1冊の作品で方向付けようとしているように思えるのである。“神の視線から客観的な描写を駆使した語り”を排し、“一人称独白体”と言うべき語りへの転換である。

“一人称独白体”は、話者自身の視点に立って出来事を観察して語る文章スタイルである。話者自身の視点で書かれるということは、すなわち主観性が入り込みやすい特徴を持つ。だから話者の恐怖感や心理的な動きを露出させて緊迫感を作り出すのには適している半面、細かな描写で状況を説明するのにはあまり適しておらず、一歩間違うと読者の多くを置き去りにするような飛躍した展開になりがちになる。怪談話、特に“実話怪談”の文章スタイルとしては、かなり不利な部類に入るものであるという認識である。

結論から言ってしまうと、今回の木原氏の意図はほぼ空振りに終わってしまったと言えるだろう。あまりにも杓子定規に“一人称独白体”にこだわりすぎ、自縄自縛に似た状態になっているように感じた。もっと具体的に言うと“一人称独白体”に不向きな不条理系実話怪談のネタにまでスタイルの網をかぶせてしまったために、かなりの作品で描写の脆弱さという問題点が浮き彫りにされてしまったのである。

この本で新機軸として出してきた“因果・因縁・祟り”といった話の場合、この独白体は有効であると思う。なぜならこれらの話には一定の“オチ”が存在しているからである。少々描写が弱くとも、読者は最終的な結末に向かって迷うことなく進むことが出来る(個々の事象を取り出せば問題は残るかもしれないが)。だが“あったること”そのものが読者の想像を絶することになる不条理怪談で客観的な説明に欠けることは、ストーリーそのものの破綻という最悪の結果を生み出す可能性すらある。さすがに破綻まではいかなかったが、かなりの読者が付いていけなくなりそうな話は散見できたことは確かである(ネタばれになるから、具体的なタイトルは書かない)。

文章スタイルについては難があると指摘したが、ネタそのものに関しては非常に読み応えがあった。因果ネタに限らず、他の系統のネタについても記憶に残るものが多かったように感じた。だからこそ尚更スタイルに対する変なこだわりよりも、ネタをいかに生かすかの方に細心の注意を払ってほしかった。あるいは愚直なまでに以前のスタイルに執着してほしかった。“実話怪談”でも当然文章技術が必要であるが、それは素材を活かすための技術であって、決して作家の思想を反映させるための技量ではないのだと思うのである。