『なまなりさん』

なまなりさん (幽BOOKS)

なまなりさん (幽BOOKS)

新耳袋』のもう一人の筆者である中山市朗氏の最新作である。やはり木原氏同様、いかに過去の名作シリーズから脱却するのかが最大の課題だったように思う。そのために中山氏が用意したのが、語り調子のスタイルを払拭する筆法と、奥底知れぬほど強烈な因業話であった。

特にネタはいわゆる“実話怪談”の素材として大規模クラスどころか、未曾有のレベルに達している。この規模に匹敵するネタで書かれた本は、稲川淳二氏が伊豆のホテルで見た親子三人の霊にまつわるエピソードを映像化するにあたっての様々な怪異をまとめた話『稲川淳二の本当に怖い怪談(竹書房)』しか記憶にない。とにかくネタの点では、このエピソード群を上回る内容はおそらく簡単に出てくることはないと思うし、将来的に見ても筆者である中山氏自身ですら凌駕できないかもしれないという超弩級のネタである。怪談マニアとしては、よくぞここまでの怪異ネタが公開されたものだと感動すら覚える。

では、この作品が手放しで評価できる作品かというと、それはまた違う評となる。結論から言うと、実話怪談のジャンルでここまでの大長編という、まさにパイオニア的作品が登場したことによって初めて気付かされた問題点がある。もしかすると、この問題点は越えるに越えられない壁になる可能性もあるのではと思わされるほど、かなり根元的且つ深刻なものになるようにも感じるのである。

中山氏がこの作品で取った文章スタイルは“一人称証言”であると察する。突き詰めれば、体験者自身がある程度の時系列に従って、起こった怪異の事実を自分の体験として証言しているスタイルである。だから一人称という主観が入った内容ではあるが、極力客観的事実を曲げないことを前提に書かれた“記録証言”であると言ってもいい。要するに“あったること”を語るという姿勢が貫かれている、記録性の高い内容になっている。個人的な意見としては、これだけの長大な事実関係を“あったること”として書き連ねていく手法としては決して誤ったレトリックではなく、むしろベストに近い方法であると思う。だから中山氏自身が奇を衒ったとか、個性を主張しすぎているとか、そのようなマイナスポイントとなるようなことをしているとは決して思っていない。しかし、それでも問題点が発生しているという印象は拭いきれない。

実はこの大長編を読みながら、これは果たして“実話怪談”というジャンルの話なのだろうかと少々不安を覚えていた。この不安こそが、この作品の最大のウイークポイントになっていると思う。つまり読んでいるうちに“あったること”としての実話ではなく、むしろ別の世界のものと無意識に比較してしまっているという感覚に襲われたのである。

個人的な定義の一つであるが、怪談話とは“あったること”の説明描写に力点が置かれて書かれている作品であり、ストーリー性の醍醐味は全てその目的のために行使されるべきだと考えている。ところが読み手の心理としては、話が長くなればなるほどストーリーの流れの方に目が奪われいく。正直に告白すると、私自身読んでいる途中で、この作品を無意識のうちに“ホラー小説”のノリで眺めていた。次々と起こる怪異の一つ一つに対する興味よりも、登場人物の動きやその後の経過の方に興味を抱いて読んでしまっていた。まさにストーリーの展開に心を奪われてしまっていたのである。

この“実話怪談”をホラー小説と純粋に比べてしまうと全くもって不利、というよりも恐怖感の煽りという点では勝ち目はない。なぜならここに書かれているのは筆者の想像力の産物ではなく、“あったること”そのものだからである。最後に起こる惨劇的な怪異の連続は“あったること”としての尺度で見れば大変なレベルなのであるが、これがホラーのノリで見てしまうと、読者の想像力の範囲内で片づけられる怪異レベルと言えるだろう。創作であれば、当然“事実を元にした作品”であろうとも、読者を意識してもっと強烈な結末を用意してくるに違いない。それが出来ない“実話”と比べてしまえば、断然ホラーの方が恐怖の点で有利になるのは致し方ないわけである。ところがあまりにも類を見ない“実話”であるために、読者の感覚が悪い意味で麻痺してしまったとしか説明しようがない錯覚に陥ってしまった、つまり本来比べても意味のない創作ホラーと実話怪談とを混同してしまったということになるかもしれない。「何か今ひとつ物足りない」と感じた読者の多くは、多分この錯覚にやられてしまったのではないだろうか。(この作品に匹敵するボリュームのあるものとして取り上げた稲川氏の本であるが、実は書かれた内容はとうの昔に単発の怪談として公開されていた。つまりその本は、有名怪談のネタの楽屋落ち・裏話と認識して読んでいたのである。だから連続する怪異のストーリーを追うこともなく、むしろ怪異の検証という読み方に終始していた)

もしかすると、こういうタイプの話の場合には、もっと有効な書き方のスタイルがあるのかもしれない。だが現時点ではこれがパイオニアであり、ことさらにその部分を痛烈に批判することは差し控えたい。むしろ「怪談は短編・掌編に限る」という認識を打破する、新しい世界が広がっていくきっかけとなることを期待したい。