『百物語 第六夜』

気付くと、もう6冊目である。

この本の中で著者本人も述べているように「怖くない」ともっぱら評されるシリーズなのであるが、今回も同じく恐怖というものとは縁遠い内容である。だが、個人的には“怪談=恐怖譚”という認識とは少し距離を置いており、そういうバックボーンを持つ者からすると、この作品はそれなりに楽しめるものであると思っている。

最初に本を手にした時に思ったのが“分厚くなった”という感想である。活字の大きさも考慮すると、ほぼ100話入っている本としてはかなりのボリュームになるだろう。そうなった原因はと言えば、詰まるところ“記録性の重視”であると考える。饒舌な説明調と言えばいいかもしれないほど非常に細かなディテールを書き込んでおり、ある意味読み手の想像力に任せる部分を削りに削っているという印象が強い。しかもその表現方法が描写というよりは説明に近いものであり、それ故に体験をストーリー化したのではなく、むしろ状況を克明に記録したと見なした方がしっくりくるのである。“実話”ではなく“実録”と言い表しているのにも納得がいくほどである。ただしこの書き方そのものが恐怖を煽る方式としてはあまり適したものではなく、どうしても淡々と事実が進行しているだけというように見えてしまう。著者である平谷氏自身は体験者の恐怖を表そうとしているとは宣言しているものの、やはり恐怖に直結するような文体ではないために、客観的には弱さを感じてしまわざるを得ないところである。

さらに困ったことなのであるが、著者自身の恐怖のツボが微妙にずれているように思えてしまうところがある。具体的に言うと“パチンコ屋の怪談”あたりにその典型的なパターンが見られる。なぜあの部分だけ活字フォントやポイントを変えて書くのか、全くそれが解せない。どうしてもその部分が怪異の肝として著者が認識していると受け取ってしまうのが一般的であるとしか言いようがない。もっと凄まじい部分があるのだが、結局その活字に気を取られてしまうのである。内容そのものが微少な恐怖であるとかいう文句は実話である以上致し方ない部分もあるが、人為的な事柄で怪異の力点がずれてしまっている現状には首を傾げるしかない。敢えて“ツボを外している”という強い表現で指摘させていただきたい。

全体的な評としては、多くの怪談マニアの嗜好を満たすまではいかないにせよ、怪談集としては十分面白いものを持っていると思う。ごく普通の怪異遭遇とはむしろこういうレベルのものが中心であると感じているし、とんでもないぐらいエゲツナイものが現れるという可能性の方が低いだろう。ありふれた日常を書いた小説がつまらないと言って排除されることのないように、微細な怪異を書いた怪談話も需要があるということである。