『「超」怖い話 怪記』

「超」怖い話 怪記 (竹書房文庫)

「超」怖い話 怪記 (竹書房文庫)

“実話怪談”を書く上で、一つの安定的な書き方がある。それは怪異自体の特殊性を強調し、体験者そのものについてはできるだけ特定的な記述をしない、ということである。そうすることによって、際だった怪異がより明瞭になり、体験者の存在を極力排することで遭遇の普遍化を目指すことができるからである。だから著名な実話怪談の多くは、他の類書では見られないような怪異を競って収集し、その裏で体験した人物に関する情報を匿名化して均質な存在にしてしまう。

ところが、この本の作者である松村氏は、その方向とは全く異なるベクトルをこの処女単著の中で提示している。怪異は「よくある話」であっても、それを体験した人物によってそれらは一期一会的な怪異体験となるという主張である。極論すれば、全く同じ怪異であっても体験する人間のシチュエーションやプロファイルが異なれば、それはれっきとした別個の怪異体験となり得るという主張であると言って間違いないところである。実際、この本の中にははっきりと“紋切り型”と評してもよい怪異譚がいくつか見られる。だがそれらの作品が取るに足らないつまらないものであるかと問われれば、即座に“No”であると言える。先が見えているにも拘わらず、それらの体験談がそれぞれ特異な状況であることが如実に確認できるからである。それを支えているのが、その怪異の体験者自身にまつわるディテールなのである。体験者自身が目の前の怪異に対して何を考え、どのような行動を取るのか。それらの全てが体験談のディテールとなっているのである。全く同じ怪異であっても、体験者のキャラクターが違えば当然違うストーリーがそこに成立するのである。だから同じ結末を迎えても、そこに既視感というものは殆ど存在し得ない。

松村進吉=ロールシャッハ氏に対する私の印象は、突き詰めれば“新しい血”であると言って間違いない。昨年の【超−1/2006】の作品同定後に作者単位で評を施した際に、私自身このような評を書いている。
『この技巧的な作り込み以上に、同定後の作品群を見て強烈な印象をもたらしているのは、話者(ネタ提供者)の視点に立った思い入れの強さである。実話怪談の定義を考える場合、妥当と思えるのは“怪異を客観的事実としてありのままに書くこと”であるだろう。極力固有名詞を削り、“見える人”の世界を排除しようとする目的には“怪異の一般化=客体化”があることが指摘できる。ところがこの作者の本領は、話者・体験者の主観的見解を取り込みながらストーリーを展開させている部分にあると感じている。(中略)とにかく今までの“客観的事実を重ねることが実話怪談”という1つのテーゼに対して“話者・体験者の主観を通して事実を重ねる”手法を提示しようとしている風に思えてならないのである。』
まさにこのテーゼを見事なまでに昇華させようという意図がかなりの作品で見受けられるのである。言うならば既成概念の延長線上ではなく、全く異なる平地に位置する試みがこの本の中で展開しているのである。

そしてその新しい概念提示から、もしかすると作者自身も想起していないような、コペルニクス的転回が始まろうとしているのではないかという予感を示しておきたい。

コペルニクス的転回”とは、哲学者カントが、人間が事物を認識するという作業を説明する上で根元的な発想の転換を示した説である。すなわち、人が認識している事物とは“あるがまま”の事物ではなく、“その人が知覚したまま”の事物であるという考えである。さらに言い換えれば、私たちが知覚によって捉えている事柄の全ては、その事柄そのものではなく、私たちが見聞きすることによって得た事柄でしかないというのである。もっと極端な具体例を挙げれば、私の認知している“あ”という文字と、今この文を見ているあなたが認知している“あ”という文字は、実は違うように見えている可能性があるというのである。

“実話怪談”の歴史を紐解くと、特にこの平成の世になってからは、客観的事実をいかに主観を交えずに純度を高くして読者に伝えるかということを目指して書かれていたと言ってもおかしくない。最初に挙げた“体験者の個性を消して匿名化する”という作業の目的には、主観性を排する意図が多分に含まれていたとも言えるだろう。読者も作者も、まさに“事実を伝えること”が絶対的な信頼性であり、実話怪談の本質であると認識していた訳である。言うならば、体験者・作者という媒体の存在はできるだけ透過されるべきものであり、怪異自体を読者が直接体験している(あるいは完璧な再現と意識する)ような書き方こそが最上の“実話怪談”だという認識が全てである。

松村氏は、少なくとも“体験者”の存在を意識して文中に書くことによって、究極の透明度を持つフィルターを追求する“実話怪談”に異を唱えた。“真実truth”と“事実fact”が次元の違うものであることを、我々の多くは直感的に認識している。究極のフィルターを使って“実話怪談”を組み立てることとは、実はそこに作者も読者も“見果てぬ真実”を求めているのではないだろうか。“実話怪談”の本質である“あったること”の追求とは、それが“事実”であること、体験者の耳目を通して認識された事柄をありのままに追体験することで十分なのではないだろうか。だから語られるストーリーが体験者の感性というフィルターを通したものであったとしてもおかしくないし、むしろそれの方が真相に近いものになるのではないだろうか。

しかしながら、この“体験者の主観を通して事実を重ねる”手法はまだ完成の域にまで達していないのも事実である。どうしても“小説的”手法に陥ることが多く、いわゆる創作系怪談との識別まで至っていないのが現実である。今後とも精進ということであろう。