『妖怪の理 妖怪の檻』

妖怪の理 妖怪の檻 (怪BOOKS)

妖怪の理 妖怪の檻 (怪BOOKS)

『怪』に連載されていた時からかなり気になって読んでいたのであるが、京極夏彦氏による妖怪考究のまとめである。筆者自身は謙遜しているが、紛れもなく学術的な色合いが強い、現在の“妖怪”の系譜について丹念に記述された内容になっている。500ページにも及ぶ分厚い本であるが、非常に興味深くそしてさらりと読むことができた。それだけ知的好奇心をくすぐる内容であると言えるだろう。

まず最初に“妖怪”という言葉の定義がいかに揺らいで変遷していったのかという歴史的なところから、話は始まる。江戸期の“化け物”から井上圓了・柳田國男江馬務・藤澤衛彦といったクラシカルな研究者が用いたタームとしての“妖怪”までを通覧して、一般的な“妖怪”の語釈をあぶり出そうとする。綿密ではないが簡単な通史としてはなかなかまとまった内容であると言えるし、各研究者の特徴をおおざっぱながらも抽出してそれぞれの主張を明確に、そしてそれによって“妖怪”という語意が非常にブレのある存在であることを示そうとしている。

そしてこの混迷する“妖怪”に対して現在最も通用する語義を与えた存在として、水木御大を取り上げる。そこで水木ワールドが開花していく流れと同時に、御大が半ば意図的に妖怪の絵を通して“通俗的妖怪”に生命を与え、それが少年誌やテレビメディアによって普及していく過程を克明に描いていく。それによって現在の我々が解釈する“妖怪”概念が水木しげるという個人によって固定化されていったことを暗に示すこととなる。更に水木御大の描く妖怪画がいかに“妖怪”概念を想起させるように工夫されているかという論が展開される。

この本は、妖怪一般論を語っているように見せかけながら、実は水木しげるが確立させた“妖怪”概念を総括したものであると言えるだろう(功績を賛美したというレベルではなく、あくまで客観的な事績を考究したものであることは間違いない)。あとがきで京極氏自身が「本作は“中〆”的なもの」であると書いたのと同じように、この本の意図は水木御大を頂点とした時代の総括、もっと具体的に言えば、1960年代生まれの妖怪研究家自身による自己総括であると言ってよい。例えば妖怪の対立軸として“怪獣”を挙げている点などは、まさしく昭和40年代前半のテレビ事情をリアルタイムで体験した者でなければ思いつかないだろうし、その時代を過ごしてきた者にとってはどうしても避けることのできないトピックである。だが、妖怪と怪獣を同列に論じることに対する実感は、新しい世代(『鬼太郎』第三部以降がリアルタイムである世代)にとってはないに等しいだろう。逆に言えば、そのような時代の特殊性をわざわざ取り上げているところに、一般論的な概説ではなく、時代の総括という部分を感じ取るわけである。またそれと同じく、最終章として水木御大による造形絡みの論考がなされているのも、新しい世代に対する強烈なメッセージのように捉えることができるかもしれない。

一つの世代を代表する人物が自らの世代について総括することは非常に難しくもあり、また非常に重要でもある。この本に関して言えば、世代の代表総括であると同時に、現在進行形で現役最前線の理論総括でもある。ただ、黎明期をリアルタイムで体験した世代の次は、既に活動を開始している。そういう意味では、この本はまさに一つの“中〆”と言えるだろう。「ミネルバの梟は夕暮れに飛び立つ」のである。