『「超」怖い話Μ』

「超」怖い話M(ミュー) (竹書房文庫)

「超」怖い話M(ミュー) (竹書房文庫)

平山氏卒業という爆弾投下から始まった「Μ」への期待であったが、きれいな幕切れという印象である。平山氏の本領である“ガチ怖”にこだわった作りであり、久田・松村の両新人がその路線に乗っかって食らいつき、何となく【王道継承】のような雰囲気が漂った感が強い。

平山怪談の特徴は、何と言っても生理的嫌悪感を伴う【グロ】である。だがそのグロを情け容赦なく書ききる先には、一種のカタルシスが存在する。後味が悪いなりに、一つの終末が話の最後に存在する。救いとまではいかないにせよ、とにかく体験者の被った恐怖は一段落する。針が振り切れんばかりの恐怖のクライマックスがあるからこそ、一時的であっても話の結末によってカタルシスを覚える。“厭系怪談”の本質がどこまでも黒く塗りつぶされて出口のない闇であるのに対して、平山怪談の世界は一条の光が射し込む闇である。読者は、闇を切り裂く光、カタルシスを求めて歩を進めることになる。だがその光のために闇の存在がさらに重くのしかかり、しかもその一条の光の先に本当の希望があるのか分からないのであるが…。今作でもそのような構成で作品群が編集されているが、果たして読者に本当の安息が訪れたかどうかは読者各位に委ねられているだろう。

人間が感じる恐怖には二つの種類があると思う。一つは“未知に対する恐怖”であり、もう一つは“予期に対する恐怖”である。前者は未体験の存在に対して抱く恐怖であり、後者は体験した恐怖が再現されることへの恐怖である。この「Μ」は正直なところ、既視感の強い体験談が多く掲載されている。しかし、それはマンネリを意味するものではない。むしろここに登場する体験談は“予期に対する恐怖”そのものなのである。

“未知に対する恐怖”はその存在を認知してしまうことによって多くは解消される。それに対して“予期に対する恐怖”は自分が想像した通りに事が運べば(ただしその確率は予定調和的に非常に高いものになっている)同じ恐怖を目の当たりにしてしまうことになる、つまり不可避の恐怖が間近に迫っているのである。掲載されている体験談は、怪談ジャンキーであれば一度は読んだことがあるような作品が多いはずである。だがその予想通りの結末になってしまっても、いや、結末通りの展開になってしまうが故に恐怖を感じるのである。平山氏をはじめとする筆者の書き方が強烈であるためなのか、あるいは掲載された体験が突き抜けた内容であるためなのか、普段であれば「同じパターンのを読んでいる」と一笑に付すようなところで薄ら寒い印象を持ってしまった。この恐怖だけは読書経験が多い者ほど逃れることが出来ない。本当に参ってしまった。

この「Μ」は久田・松村両氏にとっては、格別の終業の場となったようである。特に“情け容赦ない”書き方に冴えが見えたように感じた。久田氏のラスト二作と、松村氏の最終作はガツンと来るものがあったという感想である。ただ個人的には、久田氏に関してはやはり硬軟交えた書きぶりの方が強味があるという意見なので、こういうガチ一本槍の場面では少々分が悪いという気がした。それに対して松村氏は元来のファナティックな筆致がガチと上手くマッチしており、凄味を増したと思う。とりわけ最終作は“厭系怪談”とも上手く繋がって、本作中で一番後味の悪い作品に仕上がっていると言えるだろう。いずれにせよ両氏にとってはこの競演はプラスになったと思う。

顧みると、私自身が実話怪談に一気にのめり込んだきっかけとなったのが平山氏の『管理人』であった。おそらくこの傑作と出会わなかったら、果たしてここまで怪談に血道を上げていたかどうか、またここまで“審恐眼”が鍛え上げられたかどうか自分でも分からない。それ故、今回の卒業については非常に残念でもあり、また感慨深いものがあることは確かである。ただ今は「ありがとうございました」という感謝の言葉だけにとどめておきたい。「お疲れさま、ご苦労様」の言葉は、怪談狂としてはまだまだ先の話ということで。