『てのひら怪談』(文庫版)

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

先に『てのひら怪談2』の方をレビューしてしまったが、文庫版が出たのを機に『1』もやってしまおうと思う。

改めて本作を読んでみて思ったのは、その後に上梓された『2』や『百怪繚乱』と比べると、怪談の質がかなり違うということである。【超−1】でも同じことが言えるのだが、こういう投稿型の大会の場合、回を追うごとに文章レベルの向上が顕著になってくる傾向が強い。やはり後発の作品集と文章の巧拙を比べると少々分が悪いし、まだ洗練の余地がある作品がいくらか目立つ。だが、この現象とは全く違う、怪談の着想に関わる部分での質の相違が明らかに存在している。

“実話”も“創作”もひっくるめてひとまとまりの【怪談】というカテゴリーで作品を眺める時、大きく大雑把に分けると、怪に対するアプローチは二つあると個人的に考える。一つは怪異そのものを直接的に説明・描写して、読者の想像力を刺激してビジュアル的に再現する方法。もう一つは怪異そのものの存在はほとんど触れられず、周辺状況を積み重ねて、読者に違和感や不安感を植えつける方法。大雑把な分け方なので、この両者を兼ね備えた作品もあれば、どちらとも判断がつきかねる作品もあると思う。だがあながち見当外れの発想ではないだろう。

前者の怪談の手法はまさに【写実的】である。その際たるものは“あったること”を記録する実話怪談であることは言うまでもない。起こった怪異を正確に読者に伝えることが記録の使命であり、そのために徹底された描写力が要求される。そして読者はその描写される言葉を咀嚼して視覚的実像を浮かび上がらせて恐怖を覚える。それに対して後者の怪談の手法は【観念的】である。当然起こっている具体的な事柄は読者に伝えられているが、その流れの中にダイレクトな怪異と思しき内容が入ってくることは少ない。ただ語られる内容から、読者はその裏に潜む真の怪異を想起させることで恐怖を感じる。この2つの発想はある種の対立軸を持っているが、どちらが高度な技量を要するとか、質的に優れているかという問題ではなく、怪異を編み出す手法として採用される大きな別種のカテゴリーであると見なすだけでいいと思う。

結論から言うと、この最初に生み出された『てのひら怪談』の作品群において、写実的な怪談の占める比率が後発よりも多くなっている。別の言い方をすれば“実話風怪談”が目立つと言うことになるだろう。800字という制限の中で怪異を鮮明に具象化させるという作品傾向があり、余計な贅肉を削りに削って怪異を表そうという試みが随所に見受けられる。この試みは“実話怪談読み”からすれば大いに刺激のある内容であり、しっかりとその特色を汲み取りたいところである。どこまでが実話でどこからが創作かという野暮な詮索は排して、怪談を書く手法を見極める意味で一読に値する本であると思う。

ということで、『てのひら怪談』100編+文庫版書き下ろし8編、計108作品レビューを敢行することにしたい。特に今回は可能な限り、各作者が恐怖の源泉をどこに忍ばせ、またどのように開陳しようとしているのか、その部分に焦点を当てて考察してみたいと思う。まだ夏の怪談ムーヴメントが収まっていないのでもう少し先になるが、年を越さないうちにまとめ上げたい所存である。