『てのひら怪談』作品評の一

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

言い訳から一つ。本当は夏の怪奇・怪談本を一気に片付けてからやろうと思っていたのであるが、諸般の事情(ご想像のお任せする)から前倒しにしてスタートさせることにした。ザックリ言うと「刺激を受けたから」ということになる。とりあえず1回につき6作ずつ、他の本の書評に差し挟む形で全18回に小分けしてレビューしていきたい。
スタンスとしては以前から公言している通り、実話怪談寄りの視点から作品を読むということが中心になる。そのため他の方の評価とはまた違った意見になる可能性も十分あるが、そのあたりは様々な読み解き方があるということでご寛恕のほどを。


『歌舞伎』
幼い頃の記憶は断片的でありながら鮮烈なものを持っている。それ故に、内容の思い違いや時系列の曖昧さがどうしてもつきまとうことになるし、細部まで確認すると個人の記憶そのものに矛盾が存在することすらある。このような子供時代の記憶にまつわるあやかしである。
この作品の恐怖感は、自分の知らない記憶を弟が克明に覚えており、しかもそれがあたかも自分の覚えている記憶と強引に結びつけられようとしている展開に、主人公が戸惑いそして不快感を覚えているところであるだろう。当然、弟の記憶が非常に鮮明であるにもかかわらず、子供時代特有の無意味な遊びのイメージがあり、非常に非現実的な体験記憶になっているところが、常識的な理由や目的を寄せ付けない薄気味悪さを増幅させている。その記憶の中で主人公本人が嬉々として遊びに興じている姿が想起されることが、彼本人の困惑ぶりを明確にしている。言うならば、自分の覚えていない場面で自分自身が生き生きと活動していたという“記録”を見せつけられ、さらにそれが徐々に既成事実となっていく情景が描かれているのである。特に“自分の知らない”記憶の中で自分自身がやった行為(歌舞伎の声色)を弟が真似をする場面などは、いたたまれない光景であると言えるかもしれない。
自分が覚えていたはずの記憶よりもさらに鮮明で克明な記憶が現れた時に感じるのは、大袈裟な表現をすれば、まさしくアイデンティティーの喪失である。この作品は子供時代のほんの僅かな記憶ではあるものの、その喪失感を無意味な遊びの記憶によって創出させることに成功していると言えるだろう。そしてそのぐらついた不安定な感覚の中で、おそらく主人公は自分の知らなかった自分の存在に気付くことになるのであろう。自分の存在を揺るがすような根元的不安が、何とも言えない恐怖を生み出していると言える。


『矢』
後頭部に矢が刺さった女性という、まさにビジュアル的にホラーな存在がストーリーの中心に置かれている。だがその書き方によって、単純なホラー作品からかなり乖離した印象が強い。その女を見た直後からの主人公の行動にあまり恐怖感を覚えない点などは、その典型的な部分である。むしろ矢の刺さった状態というのが寓意であり、それを取り除こうにも取り除けない主人公の気持ちとを並べることにより、いわゆる実存哲学的な不条理小説の香りが漂うようにすら感じる。また最初の段落で、中心的な怪異とは直接関係のない周辺の状況を描写することで、おどろおどろしい雰囲気を盛り上げている点も、これだけ短い作品内では怪異譚として異質である。
結局のところ、この作品のあやかしの本質は、矢の刺さった女というキャラクターそのものではなく、そういうあやかしが登場するアトモスフィアにあると言うべきだろう。直球ど真ん中のホラーの道具を持ってきて、それをも巻き込んで不可思議な世界を構築しているわけである。初読の時は、やはりキャラクターが立ちすぎてそちらにばかり目が行ってしまったために物足りなさを感じたのであるが(ある意味“実話怪談読み”の偏った目線も多分にあったと思うが)、冒頭部分の構成や主人公のリアクションを鑑みて、作者の意図を汲み取った次第である。
淡い画風の日本画の中に一輪、大ぶりの深紅の薔薇の花が描かれているという印象であろうか。異質の存在を敢えて中央に据えることで、珍しい味の幻想譚に仕上がっていると思う。


『軍馬の帰還』
非常に印象深い作品であり、怪談の持つ情緒の奥深さを見事に体現したと言えるだろう。
都市伝説の中に、某島から観光で帰ってくる若者の肩に兵隊さんがたくさん憑いていて、これで帰還を果たすことになるという話が今でもあるぐらいだから、望郷の念を同胞に託そうとする強い気持ちは人間だけに限ったものではないだろう。むしろ馬の話だからこそ、却って人間よりも強烈な印象を持つことができたのと思う。そして飼い主親子との心の交流も、人間同士よりも純粋であるが故に胸にグッと迫るものがある。果たして兵士(人間)の帰還であったならば、ここまで感動的な内容になっていたかどうか。おそらくありきたりの戦争秘話で終わっていただろうし、少々厚ぼったい展開で読者の興味を惹くことは難しかったと推測する。
またこの作品には、読む者の心を揺さぶる小道具が散りばめられている。特に冒頭から出てくる東北訛りは、やはりこのストーリーにとっては非常に重要な役割を果たしていると言えるだろう。また後日談の数行は短いながらも、この不思議な話の詩情溢れる部分を怪談へと昇華させているが、その中でも十二分に馬と人間との強い繋がりを感じさせてくれる。
気になったのはこの話が“実話”絡みなのかという点。個人的にはいくつかのモチーフが重ね合わされた結果に完成された創作であるとは思うが、ただそういう噂はあったのではなかろうかと睨んでいる。単に作り物とは言い切れない、心に深く染み入る何かを持った秀作であると思う。


『夏の夜』
僅かの字数の中で次々と展開するストーリーは非常に面白いし、最後のオチはかなり古典的ではあるものの、冒頭のあやかしから考えるとかなり遠いところまで引っ張られたという感である。こういう急展開の作品は水準以上の力量がないと却って上手くまとめきれずに散漫な状態になることが多いのだが、一気に読ませるだけの勢いのある、なかなかの好編であると言っていいだろう。
特に勢いを感じたのは、最初に登場するあやかしの扱いの流れである。「真っ赤な帯を締めた少女」という言葉のイメージからスタートするわけだが、真っ先に思い浮かべたのは“水妖”である。ところが最終局面になって、祖母の言葉からこれが祖父の“愛人の霊”であると断定される。よく考えてみると、初めと終わりで随分イメージが変容してしまっている気がするのだが、読んでいるうちはあまり違和感を覚えなかった。むしろ祖父母の登場によるドタバタの展開で、あやかしに関する記述がなくなってしまった方にばかり気がいってしまっていた。ある意味問題点であると言ってしまってもいい部分であるが、それを通読中に感じさせないのが、またこの作品の力でもあるということになるだろう。
ただしザックリと進められる展開に対して、実は表記がとても繊細でハッとさせられる箇所もかなりあり(語尾のバリエーションあたりは意図的だろう)、何とも面白い味わいを感じさせてくれる作品という印象である。


『ムグッチョの唄』
俗謡を絡めて展開するストーリーであるが、それが非常に現代的な社会問題と融合することによって、非常に鮮烈な印象を持った。この作品で使われている“ムグッチョの唄”は間違いなく作者がストーリーを展開させる目的で作ったものだと推察するが、こういう俗謡や童歌そのものが怪談のモチーフとして活用されるケースは思いの外少ないので、インパクトとして非常に有効であったと思う。
舞台である霞ヶ浦近辺は実際に河童伝承の宝庫であり、ムグッチョの親玉の容姿がそれと酷似していることから、おそらくあやかしの正体は水妖であったと思う。そして上で指摘したように唄の内容がストーリーそのものに直結される暗示であると認識すると、少年の妹が橋から落ちたことがムグッチョの“頭に火がついた”状態にさせたために水妖の能力を発揮した、即ち親玉は中年ホームレスが化身したものという推測が成り立つと思う。いじめ抜かれた人間の身内を救うのは少々矛盾も感じるが、河童伝説によく見られる“川で溺れた者を救う義務を負わされている”誓約を人間と取り交わしている可能性があるということで、問題を回避することもできるだろう。いずれにせよ、この一件以降ホームレスの姿は消え、まことしやかな噂が広がったということになると思う。
俗謡と現代の社会の病巣というほとんど接点を持たないキーワードを妖怪によって繋げることで、一つのまとまった作品に仕上げた構成の妙は見事であると言える。特に“現代の妖怪譚”としては出色の出来映えと感じ入るところである。


『手ぬぐい』
この作品も“高齢者介護”といった現代的な社会問題をモチーフに取り上げて展開するストーリーである。だがそれはあくまで表層的な部分であり、この怪談の本質は、老婆自身の記憶下にあった激しい想念の再現が引き起こしたものであると解釈できる。
それをより鮮明にしているのが、作品の末尾数行で描かれた女性の存在である。おそらくこの姿は若かりし頃の老婆自身であると判断して良いと思う。まさに創作作品ならではの強烈なメッセージが隠されているわけであるが、この女性の仕草や言葉遣いから連想されるのは、老婆が若い時代にいわゆる“遊郭”に身を落としていたというプロファイルである。すると、彼女の行動の謎は一気に明瞭な意味を帯びてくる。
鉄格子に手ぬぐいを結びつける行為であるが、鉄格子のイメージが遊郭の格子窓とだぶれば、これが“逢い引き”の典型的なパターンであると容易に察しが付く。つまりこの行為が単純にボケによるものではなく、彼女なりの正気の“お迎えの待ち方”だったというわけである。さらに付け加えると、彼女の最後の言葉は“高齢者介護”に対する痛烈な皮肉となるわけであるが、これは怪談と関係がないので割愛。
若い時の老婆の姿が登場しなくてもおそらく多くの読者が手ぬぐいを引っ張るものの正体に気付くだろうが、それをより明確にすることを目的として視覚的イメージを出してきたのは正解だったように思う。怪談話としてはきれいな締めくくり方と言うべきだろう。