『恐怖箱 老鴉瓜』

恐怖箱 老鴉瓜 (竹書房文庫)

恐怖箱 老鴉瓜 (竹書房文庫)

『蛇苺』に続く、【超−1 2007】上位ランカーによる作品集である。だが中身を読めば、この2冊が非常に対照的であることが分かる。『蛇苺』の方はつくね・原田・深澤の三氏の作品に親和性があり一つのまとまった作品集という感が強かったのであるが、今回の『老鴉瓜』の方は強烈な個性剥き出しの作品集と言うべきであろう。大体の作品が最後の目次部分を確認しなくとも、誰の書いたものであるかが分かった。特に鳥飼・矢内両氏の個性は非常に明快であり、その両者を取り持つようにして渡辺氏の作品が交ざるという体をなしている。この本を語る場合、やはりこの三者三様のスタイルを読み解く必要があるだろう。
鳥飼氏の作品の特徴は、まさに「事実は小説より奇なり」を地でいく、驚き以上に呆れてしまうほどの突拍子のなさである。怪談の玩具箱然とした様々なバリエーションを持ったあやかしは、リアルであればあるほど真実味を失うほどといっても間違いないぐらい、相当の怪談通ですら「信じられない」を連発しそうな勢いの内容である。実際【超−1】において、私個人が真贋について真っ向から疑問を呈した作品がいくらもあるほどである。だがそれ故に、強烈なインパクトを持った書き手であるとも言えるところである。
矢内氏は鳥飼氏よりもさらに強いアクを持つ。特に“神様”が絡む呪術・憑き物・寺社関係では全く他の者を寄せ付けない独壇場を展開する。そしてあやかしに巻き込まれていく体験者を丁寧に活写することで、重厚な人間ドラマを築き上げようとする。この作品集でもその個性は長編で輝きを増すと言えるだろう。だが逆に因果物ではあまりにも劇的であるが故に、“あったること”としてにわかに信ずるにためらいを覚える作品も見受けられる。言うならば、強力な“引き当て”能力が諸刃の刃ともなる危うさを持っている書き手である。
渡辺氏は上記二氏とは逆に【超−1】上位ランカーの中でも抜群のバランスを持っている書き手であると個人的には見ている。おそらく上位ランカー中で最も正調な怪談作者であると言って良いと思う。どんなカテゴリーのあやかしでも、自分を見失わずに適切な書きぶりで癖のない作品に仕上げることができる。この作品集でも最も掲載数は少ないが、鳥飼・矢内両氏の個性を兼ね併せるかのように、どちらの作風にも近い作品を書くことで、バラバラになりそうな個性を上手くまとめている感もある。
こう書いてしまうと、この本はバラバラの個性を適当にかき集めたという印象になり勝ちであるが、『蛇苺』と比較することで三氏に共通するスタイルも見えてくる。『蛇苺』の評の最初に“斬新”という言葉を使ったが、それに対してこの『老鴉瓜』はまさに“王道”怪談、つまり三氏とも昭和時代の実話怪談の流れを汲む正統派であると言えると思う。例えば鳥飼・矢内両氏に共通する印象として「信じられない」という声が出ることがあるが、これは結局“今までの実話怪談”と比べて信じられないという評価の現れであり、読者の多くは過去のスタイルとの共通項をどこかに見出しているのではないだろうか。因果を多分に含む話、読者の度肝を抜くようなシチュエーションの提示というスタイルで真骨頂を見せる両氏と、怪談の正調と評する渡辺氏の三氏が揃えば、当然古き良き時代の怪談の色合いは濃くなって然るべきである。(対照的に『蛇苺』の原田・深澤両氏あたりの作品は、たとえネタ的に突拍子がなくとも“不条理”という言葉でまとめられているところが多いように思う。それ故に斬新であり、新しいタイプの怪談スタイルの萌芽であると見ている)
全体の印象であるが、やはり“正統派”と評して良いぐらい、直球勝負の怪談本である。【超−1】のように匿名で1作ずつばらけて提示されるよりも迫力があると感じるし、むしろこの三氏に関して言うと、こういう風にブランド名を冠した場所で記名された状態で作品群が置かれている方がしっくり来る。それだけ強烈なインパクトと破壊力のある作品を擁していると言っていいだろう。この状態で読んでいまだに「信じられない」という声を上げるのであれば、もはや読者として怪談本を読むに値するだけの力がないと断じていいかもしれない。