『てのひら怪談』作品評の二

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

『吉田爺』
メインとなるストーリーは、都市伝説のレベルで散見できる内容であると言ってもいいだろう。また耄碌していてトンチンカンなことを子供に話しかける老人というキャラクターも、それほど珍しいとは言えない。実際このような展開を見せる怪異譚は実話怪談でも存在するし、『学校の怪談』と呼ばれる都市伝説群の中には全く同じ展開を見せる作品も記憶する。それ故に、新奇さという点ではあまり評価できないというのが本音である。
だがこの作品の場合、吉田爺が実在する子供の名前を言いだし、果ては主人公の名前まで口にするところで怪異が途切れてしまっている部分に、却って怪異の本質がある。実話怪談であればここからとんでもない事態が生じることになるのが常套であるだろうし、都市伝説であればおそらく名前を呼ばれた子供達はそのまま行方不明とかいうオチがつけられているはずである。ある意味荒唐無稽な結末を迎えさせることが、このストーリーを怪談として成立させるための“常識”だったはずである。ところがこの作品では、あまりにも素っ気ないぐらい日常の風景が後日談として書かれているだけである。ただ母親の「知らない」という苛立たしげな声だけがバランスを欠いている以外は。
吉田爺が突拍子もないことを言いだした状況は、日常が崩れた一瞬であることは言うまでもない。だがこの瞬間だけを一気に増幅させて怪異を強調するのではなく、日常に埋もれた“ありふれた瞬間”のレベルにまで引き下げ、その段階で別の角度(母親の奇妙なリアクション)から改めて怪異として捉えるという巧妙な仕掛けによって、尾を引く恐怖を作り出すことに成功していると感じる。
何も起こらなかったという歯切れの悪さが怪異に繋がっていくという、なかなか味のある作品であると思う。


『光の穴』
実話怪談投稿に出したならば、間違いなく「ありきたり」の一言で斬り捨てられてしまうだろうというレベルの怪異を扱った作品である。深夜にちょっとした“肝だめし”感覚で変な場所へ行ったら、怖い体験をしてしまった。またあやしい光(人魂?)に囲まれたり、同行したはずの者が誰も行っていないというような話も、この手の話では陳腐なほど報告されているパターンである。はっきり言えば、これだけの内容で読者の肝を冷やすということはほぼ不可能であると思う。
この作品の魅力は、やはり800字という制限の中で、しっかりとしたディテールを交えてコンパクトにストーリーを完結させているという点であるだろう。特に“光の穴”という、タイトルにもなっている表現は、体験者自身の不思議に感じた印象を的確に伝える言葉であると思う。言葉の贅肉を落とすだけでなく、必要最小限の言葉を最大限に駆使した結果、非常に引き締まった内容の作品に仕上がったというところである。特にあやしい光の登場から体験者が恐怖に駆られて逃げ戻るまでの展開は、一語の無駄も不足もないと言うべき出来映えであるだろう。単純にネタで勝負という雰囲気ではない分、読ませる作品という印象が強いと言える。


『階段』
怪異の内容と文体のコンビネーションで、いわゆる“不思議ちゃん”めいた印象が最初に出てきた。子供時代の少々曖昧めいた記憶をたぐり寄せるような書き方と共に、空気の階段を昇るという超常現象がまるで日常の中でのちょっとした出来事のように書かれている内容は、一笑に付すことも可能であるが、また同時にそれを拒むだけの奇妙な説得力を持っている。一見たどたどしいように見える文体なのであるが、繰り返して読めば“空気の塊”に関する細かな描写ができており、空想的な出来事を具象化することに成功している。この点が、単なる独りよがりな体験談の持つ強烈な主観の世界と一線を画する作品として評価できるだろう(仮にこの作品が作者自身の“体験”を語ったものであったとしても、十分通用するだけのリアルさを持った内容である)。記録性を重んじる実話怪談の客観的なスタイルともまた違うが、“読み手の存在を意識した”書きぶりであることは間違いないところである。
最後の父の言葉であるが、個人的には無難な着地点という印象である。なくても特に困ることもないが、ないとどうも据わりが悪いというところである。ただ最初の段階で“不思議ちゃん”キャラクターを意識して読んだ者にとっては、まさに膝を打つ奇麗な落としどころになっているのではないだろうか。このあたりも作者の計算が行き届いていると言うべきだろう。“怪談”と言うよりはむしろ“幻談”に近い味わいである。


『猫である』
多様な解釈を施すことが可能であり、またその可能性が作品の面白さを引き立てているような内容である。ある意味この作品を読み解く作業はそれだけ野暮であると言うこともできるだろう。
まず登場する語り部と“彼”の姿が何通りにも解釈できる。両者とも人間、一方だけが人間で他方が猫、両方とも猫、あるいは人間でも猫でもない形のない存在とも言うことができるかもしれない。また容姿と共に魂の本質部分にまで言及すると、それこそ一体どれだけの読み方があるか混乱してしまうほどである。極端に言えば、この両者が別々の存在ではなく、一個の生命で繋がった二つの人格とも取れる節すらあるのだ。前衛的と言ってしまえば身も蓋もないが、読めば読むほど不可思議な世界に没入してしまいそうになる。しかしながら広義の怪談の網からも半分外へ出掛かっているという印象は免れることはできないだろう。「猫又」がモチーフの底辺にあるという推定と、禍々しさという点では範疇にあるとは思うが、微妙なところである(ただ“非怪談”として積極的に除外することは避けるべきであり、怪談の王道を行くものではないことの確認だけが必要だということである)。
最後に旧仮名遣いの問題であるが、何となく猫っぽい印象を持ったので、個人的には好印象である。「○○だニャァ〜」みたいなセリフよりはよっぽど、猫の持つ神秘性や人との関係性が滲み出てきていると思う。“彼”の吐いた言葉の部分にほとんど旧仮名遣いが使われていないが(“つ”の一箇所だけだ)、これが作者の意図的な配慮であれば、ますます猫を意識した効果を狙っていると言えるのであるが。


『薫糖』
作品中にもあるように、宇治の橋姫伝承を上手に換骨奪胎させた内容である。オリジナルでは女性が生きながら鬼になるわけであるが、この作品では女性の代わりに家族が呪いを代執行するというパターンに変わっており、伝承をそのままコピーするような陳腐な方法は取られていない。特に主人公である僕が鬼と変化するくだりは、冷静な説明描写とブロークンな話し言葉が交配された不思議な感覚の文体であり、おどろおどろしい古来からの呪術世界が現代にも息づいているという印象を持った。ただタイトルにも掛かっているので“赤い飴”という小道具が呪いの執行に大きく関わっていると思うのであるが(さすがに橋姫の“丹”を再現するためだけに“飴”をここまで強調することはないと感じる)、私の浅学の範囲では橋姫との繋がりからそれらしき由来を探し当てることはできなかった。飴と橋姫とをブリッジするキーがあれば、非常に優れた作品としてさらに評価できたと思う。
そしてこの作品に仕込まれた“毒”は、最後の部分で一気に露わになる。呪いの代執行は“血族が絶えるまで”ということになっているが、姉が元恋人の子供を宿していた事実により、執行者である僕と母も元恋人と血の繋がりを持つことになってしまっているのである。つまり呪いの成就の条件が執行者自身の死であるという真相である。単なる祟り伝承のバリエーションとして展開させるだけでなく、そこに悲劇的な予兆を組み込ませることによって、怪談として小気味よいオチを用意しているところが心憎いと言える。


ガス室
公共施設での動物の処分という、日常レベルで怪異が起こりそうなシチュエーションとしてはすぐに食指が動きそうな題材であり、また怪異の内容もどちらかと言えばすぐに想像がついてしまうようなもので収まっている。突拍子もない世界が展開している、奇抜な作品とは言いがたいのが、正直な感想である。
だがこの作品は、ガス室の様子を映し出すモニターで展開される圧倒的な怪異の具体的描写によって平凡な話で終わることはない。ペットとして可愛がられるはずの動物たちが殺されていくという感傷的な悲劇を表すこともなく、ひたすらグロテスクなものを無機質に次々と映し出していく怪異を描く作者には非凡なセンスを感じざるを得ない。個人的には、作者が思いつきだけでこれらの具体的なあやかしの映像を書いたとは思えないのである。
当然のことであるが、モニターに映し出されたあやかしの像は、死んでいく犬たちの念が具象化したものと言っても間違いない。だがその映像はあくまで“人間の常識的感覚で表される死にまつわるシンボル”でもある。つまり犬たちが放った負の思念の根源は、実は人間、おそらく飼い主の持っていた思念を受け継いだものではないかと推察できるだろう。あるいは人間と同じような思念を発することができる動物をあたかも“物”として処分していることを意味するとも考えることができるだろう。いずれにせよ二人の職員が憮然たる言動を示すところに、怪談を超えた根深いものへ思いを至らせてしまうのである。