『てのひら怪談』作品評の四

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

『おかえり』
心霊現象としては非常に些細な内容、おそらくこれだけでは目の肥えた怪談読者でなくとも興味を持つことはないであろう。実話レベルでいえば、、事実であっても評価はできないというところである。
ところが、この作品の優れた部分は心霊現象そのものではなく、それを体験した者の霊に対する姿勢である。昨今“癒し系”の怪談もかなり幅を利かせてきているが、その大半は霊的存在の純粋な思いが生身の人間の心を揺さぶるというパターンとなっている。この作品も怪談としては“癒し系”の直球ど真ん中の種類なのであるが、霊の思いに感動するのではなく、霊に対する家族の暖かな対応に惹かれることになるのだ。怪しい物音に気付き、それが亡くなった祖母の足音であると判った時の家族の気持ちが、最後の段落に凝縮されていると言っていいだろう。またこの話が“お盆”に設定されているところも非常に意味のある部分であると思うし、また真夏の黄昏時のゆったりとした雰囲気(おそらく昼過ぎ頃に夕立があったのだろうと思わせるほどの涼やかさ)も最後の一言を盛り上げる演出に一役買っていると言うべきだろう。物の豊かさでは明らかに劣るが、心の豊かさでは今より遥かに幸せだった時代が目の前に浮かぶようである。
大げさな言い方をすれば“日本人の霊性の原風景”を見事に描ききった、侮りがたい作品である。作者の人柄が滲み出ているとも言えるだろう。


『世話』
この作品の魅力は“それ”と呼ばれる不可思議な存在に尽きるだろう。人の足元に寄り添う姿から真っ先にイメージしたのは“すねこすり”であるが、それよりももっと重い宿命を負わせる存在であることも間違いない。かといって、いわゆる憑き物系の存在のようなおどろおどろしくて陰惨なイメージもない。このあたりの絶妙なバランスが作品全体の印象を支配していると言えよう。当の本人達にとっては深刻ではあるもののなってしまえば諦めがつくような、ある種の重みと軽みがない交ぜになったような人間心理を醸し出しているように思う。
想像を逞しくすると、この不思議な存在の正体は“地霊が形態化したもの”と捉えることができるのではないだろうか。これらを世話することは即ち、この土地に居着くことを意味する。東京に住んでいる私と叔母にとっては、この存在に憑かれることはまさに故郷へ戻ることに他ならない。田舎へ戻ってきて故郷の訛りがつい口から出てくるのと同じように、それの存在も故郷に馴染めば鮮明に見えるようになってくるものなのであろう。どこまで明確にその事実を理解しているかは分からないが、私も叔母もこの土地で生活することを嫌うために、それに取り憑かれないように気を付けているのである。そう考えると、生まれ故郷に対する複雑な思いを寓意化させた、なかなか含蓄のある作品というように受け取れるかもしれない。


『のほうさん』
幼少期の鮮明な記憶が周囲の人間のものとは全く異なる、特に自分が明確に存在を認識していたものが全く認知されていなかったという、典型的なパターンの話である。実際のケースでは、大半は本人の思い違いや記憶の混同などが原因であるのだが、中にはそれでは説明が付かないこともある。この作品の優れた点は、体験者によるただの思い違いではないという印象を読者に与えるレトリックである。
一番効果的だったのは“のほうさん”というネーミング。既存の妖怪とどこか通じ合う印象を持つ名前は、子供の付ける突拍子もない名前にしては何となく穏やかな雰囲気があり、奇妙な存在感を持つものに感じてしまう。さらに風呂と叔父にまつわる二つのエピソードはディテールがしっかりと描かれており、日常とハレ(叔父の帰省は盆という特殊な日である)の場面の両方で現れるのほうさんのキャラクターにまつわる表記が非常にきめ細かい点が、リアルな存在感を作っていると言えるだろう。
そして最後になってのほうさんの実在に対する疑念を投げかけてくるのであるが、心霊体験談の常套句である“目の部分の印象だけが記憶にない”という言葉を持ってくることで、のほうさんがどのようなものだったのかを見事に示してくる。曖昧な幼児期の記憶をたぐり寄せるような書き方をしながら、その裏でのほうさんのイメージを計算尽くで開示していくことに成功している。オーソドックスな展開ではあるが、一つレベルが上の作品に仕上がっていると感じる。


『旅の忘れ物』
ある人間が突如として失踪し、さらにその存在を示す物証も消失、果ては関係者の記憶からも一切消えてしまっているという話が“実話怪談”として発表され、物議を醸すことが時たまある。個人的な見解としてはかなり懐疑的な内容であり、話者(体験者)だけがなぜ記憶を消失しなかったのか、また物証や記憶が一斉に消去されるような現象が三次元世界に存在するものに物理的に適用されるのかの部分で大きな引っ掛かりを持って見ている。
この作品も人間消失にまつわる話なのであるが、むしろこの展開の方がリアルという印象を持った。本人の消失と共に関係者の記憶も消えているが、主人公も含めて全員が等しく同じ状況におかれているところが自然な流れに近いように感じる。またかつて妻子がいたことを示す物証だけが消えずに残されているところも、妙なリアルさを持っているような印象を覚える。ただこのようなパターンは“実話”として報告されておらず、やはり創作ならではのアイデアであるのは間違いない。だが例えるならば、あり得ないような身体の動きを描くことでより一層躍動感を感じさせる絵画と同じような効果があったということである。それだけ説得力を持った優れた作品と言うべきだろう。
イデアもさることながら、文章力にも一日の長がある。最初の消失の事実から一転させて糸を手繰りよせるように書かれる小旅行の部分であるが、妻子の記憶と存在が消失した瞬間の、曖昧な記憶の混濁した書きぶりは短いながらも的確で、最高の見せ場と言うべき内容であると思う。800字という制限内での主人公の心理描写の流れるような変化と併せて、作者の力量の高さをうかがわせるものである。


『生き血』
まず最初の段落のおどろおどろしい描写に引きずり込まれた。滴り落ちる血を飲みながら笑みを浮かべる艶めかしさと狂気を孕んだ男の姿が精確に描かれているが故に、インパクトは十分すぎるぐらいあると言えるだろう。そしてそれに続く血の穢れに対する神罰の事実も、因縁話としてはなかなか気味の悪い内容になっている。また“長男”だけに引き継がれるという因縁の条件も、純日本風な発想として良い味を出していると言えるだろう。とにかくベタベタの因業話なのである。
このベタベタぶりの最たるものが、最後の祖父のセリフ部分である。一旦「ただそれだけの話」と孫を安心させておきながら、一呼吸おいて「食うとお前も死ぬ」と釘を刺す。この外連味たっぷりの落とし方は古典的すぎると言ってもおかしくないのであるが、濃厚な因業話の場面では効果満点である。やはり家系の因縁は、自分自身が直接手を掛けていないにもかかわらず被害を受けるという点で、ある種の理不尽さを持つ。逃れられるものなら逃れたいという心理が強く働く場面で、一度は喜ばせておきながら奈落の底へ落とすような物言いがあるのは、読む側もくるのは予測できてもギクリとさせられるものである。いわゆる因業話の王道というべき作品であるが、その因縁の内容の濃密さで水準以上のインパクトを作ることに成功していると言っても良いと思う。


『恩人』
引き続き“因業話”のカテゴリーに属する作品であるが、趣は前の作品とは180度異なる。おどろおどろしいという感触は一切なく、むしろ冒頭部分から軽妙洒脱な軽いノリが入った言い回しで展開していく。だが、この軽い雰囲気で書かれる因縁話というパターンは、決して珍しいものではない。むしろ最近の実話怪談の傾向としては、こちらのパターンもしっかりと根付いてきていると言ってもいいと思う。
呪いや因縁という言葉の持つイメージの中に、我々は“非近代的”という概念を持ち合わせていると言える。「現代に甦った呪い」とか「現代にも息づく因襲・因縁」という常套句がその事実を端的に示しているだろう。特にこの呪いや因縁を起動させる存在が今の風潮とミスマッチと言えるものであればあるほど、そのギャップを感じざるを得ない。この作品に登場する“手にすると人を斬りたくなるような日本刀”などは、その最たる存在であると言ってもいい。まさに現代に甦ってきた過去の遺物としか言いようがないだろう。
しかしこの一見ちぐはぐとも言えるミスマッチが、現代の怪談として話を際立たせる装置なのである。最新鋭と言ってもいい環境が整っていればいるほど、そこに登場する呪物の存在は異様に光り輝くのである。しかもこの作品の場合、最後の一行で曰く因縁が継続してしまっている事実が明らかになっている。結局、時代の最先端など全く意に介さない妖刀のパワーだけが浮き彫りにされたようなものである。実体験か創作か判断が難しいが、現代におけるあやかしのあるべき一つのパターンが提示されていると言っていいだろう。