『てのひら怪談』作品評の五

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

『祖父のカセットテープ』
怪異の内容が不条理で、なおかつその体験者が何の示唆もせずに亡くなってしまっているために、いわゆる“閉じた”怪談の体を成している。言うならば、動かしがたい事実が厳然と存在しているだけでそこから何の展開もない状況であるが故に、ある種救いようのない怪異である。残される印象は言いしれぬ不安と、息苦しいばかりの閉塞感である。
この作品の怪異はまさに祖父が残したテープにある言葉の内容である。何かあやしい存在が祖父の周辺にあったと推測できる内容なのであるが、ただそれの原因も結果も目的もわからない。ただ変なものが存在している事実だけがゴロンと提示されているだけなのである。むしろこのカセットテープを受け取ってから主人公の身に何らかの異変なりその兆候なりが現れていることが書かれている方が、読者としては安心するのではないかと思う。またその印象を“声”という媒体が担っているとも言えるだろう。日記などの文字媒体と比べて生々しい印象があり、ビデオのような視覚効果のある媒体と比べて明瞭さに欠けるという点で、良い意味で中途半端なリアリティーを得ることに成功している。このあたりは作者のセンスの高さを感じることが出来る。
“閉じている”ということは、実は“完結している”とは異義であると言ってもよい。ただ現段階で展開が見られないだけの状態なのである。書かれた部分では言い尽くせない、もっと強烈な恐怖が待ち受けているのではないかという気にさせてくれるのである。それ故この作品は長編小説のプロローグという印象もつきまとう。とにかく恐怖心を煽るという部分で一日の長があると言うべき作品である。


『火傷』
不条理な出来事だけを抽出して電光石火の如く書ききってしまう“投げっぱなし怪談”の場合、実話怪談と称した方が創作怪談より遥かに有利であるというのが個人的見解である。「事実は小説より奇なり」の格言を待つまでもなく、実話怪談の世界では読者の想像を絶するような怪異が次々と報告されており、却ってその信憑性そのものが疑われかねないほどのレベルの内容すら存在する。また創作と銘打たれた場合には、奇想天外な内容であっても“所詮は作者の夢想の範囲”という暗黙の壁が立ちふさがる。いずれにせよ、出来事だけを簡潔に描写しただけの“投げっぱなし”状態では、やはり創作として一段低く見られてもやむを得ないと言うところであるだろう。
そのような厳しい条件の中で書かれたこの作品は、個人的には及第点に値する内容だと思っている。声の正体が“過去の自分”であり、その現象が“過去の触感”と同時に起こっている点で、この内容が超常現象の“常識”を超えていると判断できるからである(あのあたりの講釈は割愛)。さらに追い打ちを掛けるように自分とは全く別人である“過去の母親の声”までが聞こえてくる。小粒な怪異であり、さらによくありがちな内容にも見えるのであるが、実話ではおそらくあり得ないであろう出来事が書かれているために評価は高い(この発想が作者の怪異に対する精通から来るのか、あくまで偶然なのか、そのあたりの真相は非常に興味あるところである)。


『火傷と根付け』
この作品は“実話”であることを前提に読むことによって輝きを増す。二つあるエピソードのうち、前の方の内容はかなり珍しい現象であると言えるだろう。おそらく何らかの障りであると思われるのであるが、ここまで目に見える形で出現するケースは稀であり、また現象そのものがダイレクトに“火”を連想させるものであるというところも希少性が高い。
それに対して後半の根付けの話はいわゆる“身代わりになるお守り”の範疇に入る内容であり、前半の内容と比べると希少性の面ではかなり落ちると言わざるを得ない。特にこの二つのエピソードに関連性があるようには見えないので(同じ神社での出来事ではないのは明らかであるし、連続的に起こったという確証もない)、作者の目的がどこにあるかを判断するのは難しいが、二つを並べて登場させたという部分に効果を見ることは出来なかった。むしろ前半の怪異の方の詳細で押し進めるのも手ではないかという印象である。
どちらかというと、本格的な実話怪談のサイドストーリーとも言える部分を取りだして掌編としたというニュアンスがしっくり来るように思う。濃密な怪談世界ではなく、敢えて軽みを持った雰囲気を作り出すことで“あったること”を読者にスラリと読ませることを試みているようにも感じる。怪談エッセイと言うべきだろうか。


『半券』
全体的な印象として、文章の構成面で非常に歪さを感じるところが大きい。悪く作用すれば“素人臭さ”に通じるし、良く言えば“異様な心象の発露”ともなりうるように感じる。正直なところ、そのあたりの判断にも窮するほどのぶれ方なのである。
何よりも一番個性が出ているのは、冒頭部の突出したディテールの存在である。「文学部の二年生」や「ビアス選集?幽霊?」という言葉はリアルではあるものの、怪談の展開とは全く関係のない部分のリアリティーであり、むしろ過剰なぐらい生々しい演出として違和感を覚える。しかもそれ以降、いわゆる“同じ怪異が連続して起こる”パターンの典型が続くのであるが、1回目とはかなりシチュエーションが違うにもかかわらず、ディテールに当たる言葉がどんどんデフォルメされている。下手をすると、本に挟まれていた映画の半券が全く同じものであるのか、あるいは同じタイトルの別の半券なのであるか明瞭でないほど省略されてしまっている。展開をスピーディーにしたいために同じパターンを簡略化させる手法はよくあるが、果たして800字という短さの中では却って変に目立ちすぎていると言えるだろう。
もし仮に“連続する怪異”で話が終わったのならば芳しい評価は難しかったと思うが、最後の奇妙奇天烈な呪文のような韻文の存在によって印象は大きく変わった。ストーリーの展開自体も怪異ではあるが、それよりもこの歪な構成こそが何とも言えない不安定感を生み出している。とにかく不思議なあやしさを持った作品であると思う。


『傘を拾った話』
全く関連性のない2つの出来事を、意味を成さない理由付けによって結びつけることで全く新しい意味を持たせることが出来る。これが“目に見えない因果”として認識されると、俄然あやかしの領域の話になる。この作品はこの効果を存分に活かした、なかなか心憎い話である。
この作品が良作であるのは、話者(主人公)自身があやしい因果を認識しているにもかかわらず、それを大仰に主張することも否定することもせず、一種ツンデレな態度に終始して語っている点である。話者の語りを見るといかにも“半信半疑”という印象が強い。むしろ否定的な見方に近いような語りぶりであると言ってもおかしくない。ところが裏を返せば、話者は“傘を拾ってから人の死を間近で経験する”という事実をあっさりと受け入れており、規則性を感じ取っているのである。さらに言えば、この法則に対して無関心を装った発言をしているものの、実際には心のどこかで事故なり事件なりが起こることを期待している節がある(傘がなくなった後の感想なりコメントなりの部分の微妙なニュアンスは絶妙と言うべきだろう)。
あやかしに対する興味とは、自分に火の粉が罹らない限り、基本的には“覗き見趣味”の延長線上にあると言ってもおかしくない。日常に起こった不思議な話を淡々と語る話者の心理の奥底に、あやかしを愛でる者同士の共通項を見出した時、思わずニヤリとさせられる作品ということになるだろう。怪談マニアとしては結構ツボに来る内容ではないだろうか。


『赤い凧』
実話怪談の主要ジャンルとして“凶宅物(物件ネタ)”がある。要するに、家に憑いた霊が起こす怪異である。このジャンルは長期にわたって怪異が連続する傾向が強く、また霊の執着ぶりが強烈であるために、概して大ネタになることが多い。そしてこれらの話に登場してくる霊体に見られる最大公約数的な性格は、かつて自分が住んでいた家でいまだに同じ生活を繰り返しているところへ見知らぬ侵入者(引っ越してきた新しい住人のことだが)が入り込んできたために排除に取りかかる、つまり自分の生活テリトリーに闖入者が来たために猛烈に攻撃的になるのである。
これらの知識を踏まえてこの作品を読むと、やはり“凶宅物”の最低条件である家に取り憑く霊体の存在があり、家から離れると怪異から逃れられるというパターンが踏襲されていることが分かる。だが、その逃れる場面が実話とは一線を画しており、オリジナリティ溢れる内容になっている。タイトルにもなっている“赤い凧=セーター”が家族の跡を追うところがこの作品のクライマックスであるわけだが、この展開は実話のセオリーとはかなり異なる(実話の場合、引っ越す家族に対して霊体が家の中からお見送りしてくれるというパターンが常套である)。だが、800字の制限の中で凶宅に潜む霊の凄まじさを数多くの事例で表現することは不可能であり、むしろセオリーからはずれてはいるがこういう激しい執着の場面を持ち出してくる方がインパクトがあったと感じる。またビジュアル的にも非常に鮮烈な場面であり、読者に怖さを伝えるという怪談の使命としては十分であるという印象である。