『てのひら怪談』作品評の七

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

『指切り』
手の指と男性器の相似性と、“指切り”という言葉のダブルミーニングを軸に展開する不思議な小説と言うべきだろうか。“物の形”と“言葉”という具象性と抽象性の2つのカテゴリーのイメージが絶妙に絡まりながら一つのストーリーが編み上げられていく様子は、幻想小説とも不条理小説とも取れるし、深読みすれば実存哲学の小説であるとも言えるかも知れない。とにかく完成された小宇宙の中の物語という印象である。
このストーリーの中心的な役割を果たしているのは男性器であることは言うまでもない。主人公の思い出の部分から考察すると、フロイト精神分析学で言うところの“男根期”の概念が投影されている部分があるのではと考えることも出来るだろう(いじめに遭う弱さの根源を求めることが可能だろう)。また、いじめによって男性器が間接的に傷つけられたという展開から、主人公のプライドや存在意義そのものの象徴であるとも想像できる。いずれにせよ、主人公の自身の男性器に対する執着ぶりから彼の深層心理を探り出したくなるような作品であると言える。怪談というよりは、20世紀前半に作られた精神分析学をモチーフとした寓意小説といった感が個人的には強いという印象である。


『げんまん』
衣服の中に別人の指(手・腕)がある、そして自分と全く別の声を発するという2つのあやかしであるが、どちらも“あったること”の心霊現象として認知されている内容である。前者は物(衣服)に憑依した霊、後者は人に憑依した霊ということになる。
この作品の面白いところは、この既存の霊現象を突き合わせることによって全く新しいあやかしを生み出している点である。この2つの現象が同時に生じたという体験実話は記憶になく、それぞれ独立した現象であると認知している。しかも憑依現象と分類しているのは、これらの現象の原因がかなり悪意に満ちたものであることが多いためである(衣服に憑依する霊は嫉妬や未練故に存在するものであり、人に憑依する霊はそれだけでもかなり強烈なものであると言える)。ところがこの2つの現象を合わせて出てきた新しいあやかしが“指切りげんまん”であり、実にたわいのない内容になっている。この部分に作品自体の面白味というものを感じる。だが、ここまで明確に事象の内容は分かるのであるが、同時にあまりにも明瞭すぎるためにその目的や原因が不可解極まりないという印象を読者は持つ。つまりたわいのない内容だからこそ、却って薄気味悪さが増幅されるのである。
いわゆる“投げっぱなし怪談”としてもしっかり成立しており、「実話だ」と言われたら信用してしまうだけの雰囲気を持った作品である。なかなか良くできた作品である。


『腕相撲』
学校の怪談”の定番の一つである“こっくりさん”をテーマにした作品であるが、意外な展開となりながらもリアリティー溢れる内容であると思う。ただ作品に書かれているモチーフは決して新しいものではなく、むしろ古来よりある伝承に基づいたものであると推測できる。
こっくりさんの霊が暴走して、その霊が第三者的な存在である人物を襲うという内容はきわめて面白い着想である。ところがこの襲撃の手段が“腕相撲”という部分が民俗学的な見地からすると、実に古典的なパターンを含んでいると言えるだろう。要するに、物の怪と力比べをして勝つことによって、その邪悪な影響力を取り除くという構図である。しかもその発端が、物の怪との交信によってある種の封印が解かれ、直接の関係者以外の人物にその危機を回避させるべく白羽の矢を立てるという、実に民話的なシチュエーションになっているのである。
かつての村が持っていた“公然の秘密を共有するが故の閉鎖性”と非常によく似た世界を、現代の学校という組織は持ち合わせていると言えるだろう。秘密を守るために人身御供が差し出され、その人物が力で物の怪を退治するという民話的展開にリアリティーを持たせるには、もしかすると今の世の中では学校が一番似つかわしい場なのかもしれない。作者の着眼点が冴えている作品だと思う。


『ご時世』
タイトルを見て、続けて最初の登場人物達の言動を読んだところで、見事に作者の罠に引っ掛かってしまった。霊に対する今時の若い連中の不作法さで何か怪異を出してこようとしているのではないかという、良い意味でのミスリードを起こしてしまったのである。特に最終盤に至るまで全く笑いと繋がらない流れで押しているために、どのような恐怖で終わるのかばかり予想しながら読んでいた。それ故に最後のオチの部分は「一本取られた!」としか言いようにない、ある種の爽快感を覚えた。まさか笑いで締め括られて、しかも“ご時世”に敏感だったのが霊の方であるとは、予想だにしていなかった結末である。
ちょっとブラック気味の笑いでもあり、同時に馬鹿馬鹿しさも相当なレベルであり、登場人物達のシラケぶりに思わず同情しつつも笑ってしまう。怪作の部類に入るとは思うが、笑いの取れる怪談としてはなかなか上質の作品であると思う。


『時計』
一読した感想は“SF系のショートショート”であった。やはり怪談の範疇からはやや外れたポジションにあるという印象は拭えなかったし、工夫次第では怪異譚までは行かなくとも“不思議な話”というところまでこぎ着けたかもしれないとも感じた。
この作品も最後の一発のオチで決めるという風な作品である。ただ展開方法も実にオーソドックスであると言えるし、どちらかと言えば意表を突くオチではなく、少々予定調和的な締めくくりであるだろう。想像を絶するような突拍子もないオチでない分、どうしても読者は冷静な読み方で最後のオチを見ることになる。そのような状況の中で、繰り出される言葉の中で一つ引っ掛かる部分があった。言葉尻を捉えて批判というわけではないが、その一言のために個人的に“SF系”という印象を持ってしまったのである。最後から2行目「デジタル表示が壊れていた」という一文である。
6時66分というあり得ない時間表示を提示する直前の一文なのであるが、結局“故障”という理由を先に挙げてしまったために、超常現象としてのインパクトの強さが薄れてしまったように感じるのである。つまり“666”という禍々しい表示に導いた“見えざるもの”の存在を巧みに想起させる機会を摘んでしまったように感じるのである。この1行を削るだけで、さらに不吉な気分を醸し出すことが出来たのではないだろうか(777ではなく意図的に666を提示していると見なすことが出来るだけに、非常に惜しい)。
全体的な印象としては、単なるシンクロニシティの怪異だけではなく、時間に追われる緊迫感と不安感が描写されており、読み応えのある作品ではあると思う。


『「怖い話」のメール』
ストーリーは単純明快、都市伝説でもよく似た展開の話があるので、ほとんど新奇さというものはないと言えるレベルである。だが、こういうシンプルな内容であるだけに、作者の力量が透けて見えてくる。
この作品の魅力は“思わせぶり”の技法である。冷静に読めば、この作品には超常的な怪異と言えるものは全く存在していないことに気付く。主人公の元に届いた「怖い話」のメールが、友人に送られてきたものと同一であることも書かれていない。更には「怖い話」のメールと友人の死との因果関係もどこにも明記されていない。だが、シンクロニシティを匂わせる記述が全くないにもかかわらず、読者は作者の思わせぶりな書き方に引っ張られて、断片的な事実の中に確実な因果関係を作り出して読むのである。それを助長させるのが最後の部分で主人公が口にする逡巡の言葉であり、駄目を押すかのように“クリック”という言葉で締め括る。まさに余熱で中まで火が通ることを見越した上で料理鍋を火から下ろすような絶妙な終わり方である。
怪異の“あったること”を書かずに怪を語るというパターンは、“究極の怪談”の一形態であるというのが個人的意見である。短いストーリーの中でそれを体現させたこの作品は、まさに好事家好みの内容と言えるだろう。