『てのひら怪談』作品評の九

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

([か]2-1)てのひら怪談 (ポプラ文庫)

『換気扇』
まさに日常の中で起こった不思議な体験を、淡々とした文章で隙なく書いたという作品。文章の淡泊さと怪異の内容が非常に合っており、薄味ながらも何か印象に残る作品であると思う。実話怪談としてはあまりにも些細すぎて取るに足らないと言えるレベルなのであるが、怪談としては完成度は高いと言えるだろう。
特に巧く仕上がっていると感じたのは、最後の怪異に気付く瞬間までの流れの中で“音”の存在を意図的に取捨選択しているところである。怪異の発端は“換気扇のスイッチが入る”音である。音に関する記述はその部分にしかないのであるが、よく考えてみると、換気扇が回り続けている限りかなり大きな音が鳴り続けていなければならないことに気付くのである。つまり作者は換気扇が回っている音を無視して怪異の確認をおこなっているのである。そして目視の段階であたかも換気扇のスイッチが付いていたことに気付いたかのような書き方をしているのである。もし“あったること”として音の存在を書き記していたら、おそらくここまで奇麗な結末にはならなかったことは間違いない。気づきの手段を聴覚から視覚へ一気に動かす手法はさりげない印象ではあるが、要諦を押さえていると言うしかないだろう。小粒ながら良い作品であると思う。


『住んでいる家で昔起きたこと』
この作品も“実話怪談”の範疇で読み解くと、非常に厳しい評価しか出せないというのが正直な意見である。最初の方は問題ないのであるが、最終段落で駆け足で書かれた内容が支離滅裂と評するしかないような迷走ぶりであり、全容が端折られているという印象だけが残ってしまうからである。やはり“実話”という言葉の持つ概念には、記録性と客観性が前提に備えられていなければならないというわけである。その観点から言えば、この作品の展開はどんどん悪い方向へ走ってしまっていると言わざるを得ないのである。
ところが、怪談の範疇で見れば、この作品の問題点は別の意味を持ってくる。実話の話者(書き手)は同時に記録者でなければならない、つまり冷静な神の視座(完全な客観性の保証)を持つことを原則としなければならないが、怪談の話者はあくまで“作中の展開の一視点”であれば事足りるのである。この作品の話者である人物の語りがだんだん冷静さを失い支離滅裂な印象を強めれば強めるほど、読者はこの人物までもが既にこの家の影響下にあり、精神的におかしな状態に陥っていると確信するのである。おそらく最初の語り口ではさほどに思わなかった恐怖が、話者の迷走ぶりによって強調され、実は“凶宅”と呼ぶに値するだけの場所であると思い知らされるのである。また嫌な雰囲気で終わらせている点でも、この締め括り方はなかなかの技量であると思う。


『落ちていく』
何の脈絡もなく、ただひたすら悪態を吐く中年女性の言葉を断片的に寄せ集めたような内容である。はっきり言ってしまえばストーリーも何もなく、とにかく言葉によるイメージが散らかし放題にあるだけである。ある意味読み解き不能であり、作品全体がモヤモヤとした抽象的な意味の羅列でしかないように感じる。
だが、全体を通して感じ取れるイメージは明瞭であり、誰かが死に至るような事態にまで発展してしまったトラブルに話者が巻き込まれてしまったのではないかという推測は可能である。ただしそれが具体的にどのようなものであるかは、散りばめられたトピックがあまりにもバラバラでありすぎるために容易に断定することは出来ない。とにかく掴み所がほとんどないように見える作品なのである。
しかしながら、無機質に並べられた語群が本来持っている意味によって僅かばかりの有機的な連結を生み出し、読者がその部分に着目することで不思議なニュアンスを勝手に掴んでしまうことを意図した作品であるならば、まさに作者の術中にはまってしまったと言わざるを得ない。個人的には、不愉快さを伴った気味の悪さはあるものの、広義の怪談であるとも言いがたいとしか評しようがないところである。


『怪段』
日常見慣れた様子や何気なく繰り返されている行為が突然異常なシチュエーションに変わった時の恐怖は衝撃的ではないにせよ、ジワジワと染み出てくる違和感の噴出によって足元が崩れていくような目眩にも似た感覚に襲われる。この作品も、日常起こりうる状況が一転して異常な事態にはまりこんでいく、特に自宅という最も自分に近い空間で起こる怪異であるだけに、何とも言えない怖さを感じてしまう。
だが、この作品の場合、“無窮の階段”という永久の行為に対する恐怖よりもさらにもう一つ突き抜けた恐怖が最後の一行に待ちかまえている。
階段がカーブすることで、単純な直線運動の延長が空間的な広がりを見せ出す、すなわち迷宮的な広がりを持つ世界が階下に広がっていることを示唆する。それは広大無辺な闇の広がりを持つ異界へ放り出される孤絶感を伴う恐怖である。無窮の運動を繰り返す行為よりもさらに深い恐怖である。しかしそのような状況であるにも拘わらず、“引き返すのもめんどくさい”と言い放つところに恐怖に対する虚無的態度が見えてくる。恐怖を恐怖として感じることが出来ないという姿勢は単に鈍磨していると言うだけでは済まされない、深い闇の心理である。
もしこの一行がなければちょっと気の利いたショートショートという感の強い作品となっていたはずだが、さらに読者に考えさせるような闇の存在を提示させることで一工夫に成功していると言えるだろう。


『白壁』
この作品は、実話怪談の典型的スタイルを踏襲して書かれたと言っても間違いないほどのオーソドックスな展開を持つ。普段と変わらない状況から一転して突発的な怪異が発生、そして後日談で締め括るというパターンは、予定調和的な進め方ではあるが非常に安心して読めるところである。また怪異の内容についても、突拍子のなさといい、衝撃的であるという点といい、こちらもある意味そこそこのレベルの怪異であると言えるだろう。実話怪談の観点から言えば“可もなく不可もなく”の評価で落ち着くと思う。(後日談である体験者の五分刈り頭の理由であるが、客観的証拠としては非常に弱いところであるが、“あったること”に対する反動として体験者自身が遵守している点では、それなりの説得力を持つ内容だと思う)。
個人的な意見であるが、怪異そのものが緊迫性の強いそしてスピーディーな展開であるが故に、文体に“ですます調”や“伝聞体”を採用したのは、やはりインパクトの弱さに繋がっているのではないかと見ている。あやかしの描写の部分で体言止めと倒置法を畳みかけるように使っているので、全体がなまくらな印象は決してないのだが、何となくまどろっこしさを感じてしまう部分があったと思う。


『日々のつみかさね』
普通の人間に見えない存在を認識してしまう事態は悲劇でもあり喜劇でもある。喜劇の場合、見える人と見えない人とのギャップが引き起こすドタバタであったり、本来恐怖の対象である霊を見慣れることで恐怖を感じなくなってしまった意識のギャップのエピソード紹介(さらにひねりを利かせて、そのような物怖じしない人物が遭遇した例外的恐怖譚)であったりする。この作品は、典型的な後者のパターンなのであるが、そのシチュエーションや言動がいかにも霊を小馬鹿にしているという内容であるために、さらに珍妙な面白さにあふれている。
まず何と言っても“夏休みの自由研究”に霊を取り上げるという設定の馬鹿馬鹿しさが抜群である。しかもそれが“侍の幽霊”というグロではないがかなり恐怖感を覚える対象であるのが秀逸である。間違いなくこの初期設定で、読者は一気にこの作品に引き込まれてしまったと思う。とにかく非常に短い内容でありながら、タイトルを含めてノンストップで笑いのツボを刺激する展開は奇抜で良くできていると言えるだろう。