『「超」怖い話 Ξ』
- 作者: 松村進吉
- 出版社/メーカー: 竹書房
- 発売日: 2009/07/07
- メディア: 文庫
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【超−1】大会中における松村氏を、私は“新しい血”と呼んだ。“あったること”を中心に冷徹なまでに客観化、即ち、削ぎ落として乾いた文体で極力体験者の個性を殺して書くのが“実話怪談”の主流となっている状況に対して、饒舌に体験者の心理や感情を露わにさせることで怪談のストーリーをより読ませるだけの力と傾向を備えた書き手として突如として登場したからである。だから、氏の作品は饒舌で且つ雄弁である。その強烈な個性は随所に活かされていると言えるだろう。『十五年』あたりはその真骨頂であり、ネタとしては本当に些細なレベルでしかないものを一編の青春小説にまで昇華させた腕前は、おそらく他の怪談作家が束になってもそう簡単に出来るものではないと思う。そしてそれを極めたのが“まえがき・あとがき”を一切書かずに己の編集方針を伝えた冒頭と末尾の2作品の存在である。これを読めば、氏がこの作品の中で怪異を書くことをどう捉え、何を訴えようとしたのかは明らかである。これもウエットな筆致であるが故に可能な技であると言えるだろう。とにかく自分の持ち味を活かした内容に持ち込んでいることは明白である。(ちなみに巻かれている帯についても、作品タイトルではなく口上を述べているなど、今までの作品とは一線を画す体裁を意識しているのが分かる)
しかし、当然のことながら“伝統”はしっかりと受け継がれている。何と言っても最後に置かれた『鑑賞会』は久々の“罰当たりで不快感充満”の傑作である。そして非常に注目すべきフォーマットであるとも言える。はっきり言えば、この作品は取材の段階で到底一本の線で繋げようのない、いわば一つのまとまったストーリー展開が無理な内容である。だがそのまとめきれない断片を素のままで置くことによって、底深い闇の全容を見せつけるタイプの書き方である。書き手が小綺麗にまとめて一つの流れを作るのではなく、情報を無造作に置く(この配置が書き手の妙技となるのだが)ことで、よりリアルで得体の知れない怖ろしげな印象を生み出すことに成功していると思う。しょっちゅう使えるフォーマットではないが(当然大ネタで且つ強烈なインパクトをネタ自身が持っているものに限るが)、実話怪談の可能性を感じさせるものだと言っておきたい。(ただしこのフォーマットを活用して成功したケースの初見は、『恐怖箱 蛇苺』における深澤夜氏の最終作であることを付言しておく。こちらも相当な怪異譚である)
そしてもう一点挙げるならば、共著者の久田氏がこの本のアトモスを作るのに好アシストしているように感じる。今までの久田氏単著と比べるとかなり傾向も違い、松村氏がおそらくセレクトしているとは思うが、それでも松村氏寄りの作品を相当提示してきたのではないかと想像できるほどの偏りぶりと言っていいかもしれない。それを思うと、久田氏編著で松村氏共著というパターンもありかなという気にさせてくれる。全体としては、出色とは言わないが、かなり鍛え上げられた上々の一冊という印象が強いところである。