『恐怖箱 怪痾』

恐怖箱 怪痾(かいあ) (竹書房文庫)

恐怖箱 怪痾(かいあ) (竹書房文庫)

相変わらずの筆力に裏打ちされた強烈な怪異譚が並ぶ。この重厚な文章の作りの中で形成されるストーリーは、読み手をグイグイと独自の世界に引きずり込んでいき、気が付くと夢中になって読み貪ってしまっているといった具合である。今作でも、恐怖のどん底に陥れるような内容から、思わずニヤリとさせられる不思議譚まで、まさに独自のワールドを展開させていると言えるだろう。何の予備知識も持たない怪談素人に読ませたらおそらく怪談歴数十年という大ベテランと勘違いするのではないかと思っているし、それだけの風格と完成度の高さを持っていると言っていいと思う。この3年間で上梓された3冊の作品を並べれば、その実力は証明されているだろう。
しかし個人的な感想を言うと、今作の『怪痾』は前作の『怪癒』と比べると、どうしても強烈さの面で弱さを感じるところである。やはり、最終話である「集団肖像画」の展開に対して若干疑問を呈する部分があったためである。
「集団肖像画」の肝をいわゆる“伝播怪談”と呼ばれるパターンで括ろうとしているのであるが、果たしてそれが作品として良かったのかどうかと問われると、それ以外の部分を肝に据えて、得体の知れない恐怖感というものを作りだした方がもっと迫力があったのではなかったのかと思うところである。もっと明瞭に言えば、“伝播怪談”をメインに据えたために却って恐怖感が薄れてしまったという意見である。
“伝播怪談”は、かいつまんで言えば「その話を聞いたり読んだりした者は、同じ怪異に遭遇する」ことを肝として、恐怖を煽る内容である。詳細は書かないが、この最終作も最後の段階でこの“伝播怪談”であることが強調され、その部分に殊更に焦点を当てようとしているのが見て取れる。しかし、個人的な意見を言えば、“伝播怪談”はあくまで子供騙しの“都市伝説”の域を超え出るものではない。仮に本当に伝播する内容であったとしても、こういう形での公開方法では伝播する確率はゼロに近く、結局は伝播する怪異と遭遇できる結果を得る可能性はまず「ない」と言える。それ故に、いたずらに“伝播怪談”を強調しても結果が伴わないだろうとなれば、敢えてその部分に力点を置く必要性はないだろう。
私見を書くと、“伝播”のキーワードは“言霊”であり、体験者から直接話を聞くレベルであれば、かなりの確率で伝播するかもしれないが、非体験者が間接的に書いた文章を印刷物として読むだけで伝播することはあり得ないと見て良いと思う。文字や言葉そのものが怪異を引き起こすケースは非常に稀であり、特に印刷物で怪異が伝播する話は、おそらく朝松健氏が語ったクローリーの著作にまつわる怪異譚ぐらいではないかと思う。要するに、言葉に籠もった念が怪異を引き起こすのであり、不特定多数に機械で刷られた文字ではやはり怪異を引き起こすだけの念が足りないのではないだろうか。
そういう観点から見れば、あそこまで読者に対する“伝播”にこだわる必然性をあまり感じないし(尤も体験者に対する“伝播”は絶対的に必要だったが)、それ以外の内容で充分読者を恐怖に落とし込むだけの要素を持っていたと思う。これから起こるかもしれない低い蓋然性に恐怖のウエイトを置かなくては成り立たないような作品ではなかっただけに、締めくくり方に関して非常に残念という思いである。