『「極」怖い話 甦怪』

「極」怖い話 甦怪(そかい) (竹書房文庫)

「極」怖い話 甦怪(そかい) (竹書房文庫)

実話怪談コンテスト【超−1】には“リライト”というシステムがある。投稿された作品をインスパイアによって書き直す。当然ネタを崩さず、創作的な付け足しもなし、作品そのものをリスペクトしつつ書くわけである。この本で展開されているコンセプトは、まさにこの“リライト”である。
元ネタは2007年度の【超−1】作品群。既に傑作選は出されているものの、その選に漏れた投稿作にも良作があるということで、著者の加藤一氏が選りすぐって良ネタ作品を“リライト”して上梓されている。ある意味【超−1】スピンオフとしては正統と言ってもおかしくない趣旨の作品である。
個人的には、大会における“リライト”については寛容な立場である。要するに「やれるのであれば、やった方がいいと思う」ところであり、実際に今までそういうスタンスであった。特に投稿者たちが繰り広げる“リライト”は読み応えもあるし、文章技術の向上を目指している分だけ真摯であるという印象である。
しかしながら、今回の上梓については些か「?」を感じる。
まず“リライト”の本分は、書く行為の修練の一環であり、決して広範囲の読者のためのものではないということである。はっきり言えば、怪談を書く行為に魅力を感じる者にとっては非常に有益であるが、ひたすら怪談ネタを漁る読者からすれば、同じネタを焼き増しするだけの“リライト”はあまり面白いものではない。書き方によって恐怖度の詰まり方が変わる、方向性や奥深さにも変化があることは事実である。また投稿作品の文章力があまりにも酷すぎてまともに読めないという場合の“リライト”は、読者にとってもプラスであることもある。だが、実話の持つネタの強烈さや特異さを追求する面から見れば、どう書き直そうとも事実が変わることはなく、またある程度文章にまとまりがあればそれを改編する意味はあまりないのではないだろうか。特に“あったること”に重きを置く読み手にとっては、いくら優れた書き手によって“リライト”がなされようとも、やはり起こった怪異そのものは変わらないわけであり、魅力を維持することは非常に難しいと思う。
さらに言えば、この作品群の場合、明らかに創作的な添加が随所になされており、果たして“実話怪談”の体を成す作品として認めるべきかという問題もある。加藤氏自身この作品群のコンセプトとして“語り継がれる怪談”を提示している。つまり“あったること”の記録ではなく、その記録を読んだ者が次に伝播させていくことによって“生き続ける”怪談を目指しているわけである。“生き続ける”即ち変質する怪談話の源流を作ったと言ってもいいかもしれない。
実話と創作の垣根については、もしかすると徹底的にこだわる必要があるかもしれないが、ただ極論を言えば、たとえ体験者自身が語ったとしてもそれが時間の経過を伴って再構築されているとみなせば“創作”と言わざるを得ないし、第三者の体験談であっても怪異そのものに何ら手を加えなければ“実話”と呼ぶことも可能であるということである。そのような曖昧な垣根の境界線上で、この作品群は一種捻れた存在であることは間違いない。広義の実話とみなせるギリギリの位置にありながら、オリジナルの作品が存在する、つまり明らかな二次創作の典型なのである。
紙媒体で上梓されることの意味を殊更に考える者として、そして実話と創作との垣根の存在を厳格に考える者として、この作品はどうしても納得いかない部分が存在するわけである。
もちろん体験者の存在する“あったること”の怪異譚が流布することによって“都市伝説”化することは良くあるし、また直接体験者から取材したオリジナルの作品の中にもいくつもの都合良さが潜んでいることも事実である。だが、こうやってあからさまにその中間物が上梓されることには、やはり違和感がある。「頭が固い」と一笑に付されることを覚悟して言えば、個人的には良作であるとは言えないところである。
内容であるが、オリジナルと比べてあまり変化がないと思う作品が多かったが、中にはすっきりと整理されて感度が上がったと感じる作品もあり、“リライト”を意識する人達にとっては良いお手本になっているように思う。でも、何よりも“加藤氏の感じる恐怖とは”という部分が如実に出てきており、その部分を比較して読むと意外と面白かったりもする。まあ色々な意味で“問題作”という評価である。