『「超」怖い話 怪福』

「超」怖い話 怪福 (竹書房文庫)

「超」怖い話 怪福 (竹書房文庫)

90年代から始まる“実話怪談”の時代には、2つの怪談傾向がある。
一つは“あったること”を簡潔にまとめ、怪異そのものだけを切り出すという手法。いわゆる“目撃談”とか“投げっぱなし怪談”と呼ばれる、インパクト勝負の作品傾向である。他方は徹底的に“因果”にこだわり、そこに投げ込まれた体験者を通して延々と続く怪異を並べていく手法。いわゆる“祟り・呪い系”とか“罰当たり怪談”と呼ばれる、読む者にも心身的ダメージを与える作品傾向である。大まかに言えば、この対照的な2つの傾向を軸にして実話怪談は盛り上がっていったと言ってもいいかもしれないし、“新しい血”と呼ばれる一群もこの2つの傾向のバリエーションであるとも言えるだろう。
この『怪福』は、そういう観点から読むと、非常に特異なポジションにあるように感じる。“原因と結果”という流れがある話が非常に多いのであるが、しかし、それらのほとんどはいわゆる“因果物”と呼ぶまでに至らない内容である。怪異が起こり、それを体験した者が何かしらの影響を受けるのであるが、その両者の間に緊密な因果律を見つけることは難しいように感じるのである。ある意味“あったること”としての怪異を体験することで、体験者自身が何かを得たという印象の方が強い。つまり“因果律”ではなく、“力点と作用点”と言うべき関係で話が展開していると感じるわけである。まさに“投げっぱなし怪談”よりも人間くさいドラマがあるが、“因果物”よりも自明の理としてストーリーが完成されているというわけでもない、いわば2つの傾向の中間を軽やかに抜けていくような、一種独特の印象を持ったのである。
それを非常に強く感じたのは最終作である「四十六」である。幼年期からの出来事が時系列的に書かれてあり、起こっている怪異そのものは客観的に見て因果律を持つものであると判断できる。しかし、体験者自身の半生が重ね合わされると、一連の怪異が原因で体験者が追い込まれているように感じることが希薄なのである。怪異は明らかに体験者の人生に暗い影を落としているのだが、それによって破滅に突き進んでいるようには見えない。怪異と体験者の人生が“因果律”で結びつけられているように感じられないのである(おそらく書きようによっては、体験者がこの怪異によって人生を狂わせられているという印象を与えることも出来るだろう。だが久田氏は敢えてそれをせず、“あったること”としての怪異とそれに対する体験者のリアクションを淡々と綴ったのだと推測する)。
強烈な恐怖も少なければ、人を感動の嵐に引き込むことも少ない。しかしながら、確実に“怪異を通して人を描く”ことも“あったることを積み上げる”ことも、久田氏はやってのけていると言える。どちらかと言えば文体に個性を持っているわけではないタイプであるが、他の怪談作家とはひと味違う腕の見せ所を持った書き手であると思う。そして“あとがき”に書かれたことが事実ならば、まだもう1冊書き出す余力があるわけで、やはり“怪物”の称号は伊達ではないところである。