『恐怖箱 怪路』

恐怖箱 怪路 (竹書房文庫)

恐怖箱 怪路 (竹書房文庫)

最終話の「キ印人形」をはじめ、良質の怪異譚が詰まっている作品である。怪異の中身も非常に興味を覚える、そして強烈なものが並ぶし、最初からトップスピードで一気に駈けているという印象が強い。加えて筆さばきが巧く、怪異そのものを相乗効果的に活かしているように見える。
作者である深澤氏の言によると、これらの一連の作品群について“因果”というものを意識して書いたとのこと。ただし意識したのは、強引な因果律の成立を目指す方向性ではなく、おそらく現在体験者を襲っている怪異の発端と言えるものはこれぐらいしかないだろうという過去の事実を引き合わせて並べて書く作業だけであるように見える。作者が意図的に誘導するようなガチガチの因業話を目指すのではなく、しかしながら、推測すればするほど「これ以外には考えられない」という気にさせてくれる内容を提示しているため、読み手の側がきちんと両者の因果性を補うための糸を繰りだして読むことが出来るといった感がある。ストレートな表記でない分、それだけ読み手の頭の中で因と果がきれいに合致した時のインパクトは強烈である。
その方向性を決定付けているのが、“体験者目線”の書きぶりである。いわゆる“あったること”をそのまま時系列に並べて客観的に俯瞰しながら内容を書き綴るという雰囲気は少ない。むしろ体験者の行動や当時の感情を織り交ぜながら内容を書いているために臨場感溢れる展開となっており、また怪異の原因を生み出していると思われるあやかしの存在が徐々に見えない地平から浮かび上がってくる様が非常にリアルであると言える。ここが作者の意図と筆致が巧妙に組み合わさってインパクトを作り出していると思うところである。
特に登場するあやかしたちの“得体の知れなさ”という点では、他の怪談本を凌駕する迫力があるという意見である。主人公である体験者がリアルタイムであやかしと遭遇する場面、また目前に迫り来る怪異の原因と思しきあやかしの魔手の存在に体験者が気付く場面での強烈な衝撃波の押し込み具合は、ページを割いて詳細を書いているための感情移入だけでは説明できない凄味を感じた。他の怪談本であれば、怪異を引き起こしたあやかしはあくまで“因果の糸”の片方の端を握るだけの存在として意識されつつ理解されるはずである。言い換えれば、どんなに恐ろしい存在であったとしても、体験者が因果の輪から抜け出せば、それらの存在もいずれは解決の道を辿っていくだろうという希望と期待を持つことが出来るのである。だが、この作品に登場するあやかしは怪異の因果の中にだけ留まるような印象を受けない。むしろ彼らは体験者の遭遇した一連の怪異が終結しようが、相変わらず絶対的な存在をもってこの世界に居続けるのではないかという不安を覚えさせる。おそらく怪異の原因と理解できたとしても、体験者自身にはどうすることも出来ない存在としてしっかりと描かれているために、その絶望的な“得体の知れなさ”が因果という小さな円環運動をも突き抜けさせてしまうのかもしれない。敢えて言うならば、体験者目線で書かれた“コズミック・ホラー”に近い様相が展開されているように思うわけである。
個人的には、最終作の「キ印人形」よりも、「佐藤さん」「十年」「十一年」の方がコズミック・ホラー的な味わいがある分だけ、評価を高くしている。全体的にも怪談という範疇よりもホラー的な色合いが強いように思うが、ただし怪談としては直球ど真ん中の“正統派”であるとも断言できる内容である。「恐怖箱」シリーズの作家では初の単独著作を出せたのも、これを読めば納得というところである。