『怪談社』

怪談社 実話怪談師の 恐怖譚  (竹書房文庫 HO 85)

怪談社 実話怪談師の 恐怖譚  (竹書房文庫 HO 85)

怪談社は、近年関西で頭角を現している、怪談語りの集団である。関西の怪談イベントではもはやなくてはならない存在であると言って間違いないし、それだけの実力を備えている。私もこの怪談社のイベントにはよく足を運んでいるし、顔なじみであると言ってもよい。だから今回の書籍の刊行には驚きもし、また感慨も強い。
“驚き”の部分は「まだ早いんじゃないか」という印象によるところが大きい。実力があると言っても結成して3年程度、またネットによって怪談ジャンキーの間で名前は知られているが、実際には関東進出しているわけでもなく、直接彼らのライブを見た者はさほど多くない。そういう状況で“怪談師”という語りのエキスパートが本を出すことへの危惧があったことは確かである。
話芸と文芸がまったく異なるテクニックを駆使することは、疑いのないところである。おそらく同じ題材を俎上に乗せてみても、その捌き方は恐ろしいほど違う。語りの世界に身を置く人間が文章を起こしてそれなりに個性を出すことは、相当至難の業であると感じる。唯一の成功例と言えるのが稲川淳二氏であるが、氏の場合、語りのパターンが全国区で知れ渡ってからの積極的な刊行であり、その独特の言い回しやテンポを徹底的して文字で表現するという方法で独自の世界を文芸の世界でも花開かせたと評価している(特にこの件で貢献しているのは、リイド社の文庫本であるだろう)。
それに対して怪談社の場合、ライブでの成功体験を語りの文章ではなく、二人の怪談師のキャラクターによるコントラストで出そうとしているように見える。ところが悲しいかな、彼らのライブを直接見たことがない者からすれば、作品の合間に登場する怪談師の日常は、怪談の内容と乖離した単なる戯れ事にしか見えないのである(ただライブへ足繁く通う者から見れば、本当にああいう雰囲気の二人であり、あの掛けあいがライブの一つの見どころになっている)。特に怪談好きは純粋に怪談話を渇望しており、それ以外の要素が紛れ込むことを嫌がる傾向が強いために、余計に二人のキャラ立ちに対して拒否反応を示す怖れがあったと言えるだろう。
さらに、文章の拙さがカバーしきれるものではなかったのも事実である。やはりいくつかの話では、読むのに苦労した表現があった。また奇妙な改行は、読む人にとっては目障りなぐらい目立つものだったと推測する(ただこの改行については、版組を横書きに直してみると、メールのレイアウトに非常に似ていることが判る。おそらく書き手側の意図としては“文節が行をまたぐことを避けた”、もっと好意的に取れば語りの命である“ブレス”を意識しての書き方ではなかったかと推察可能である)。やはり文芸の世界である以上は、その世界のしきたりに敢えて従うべき場面があったようにも思うし、しきたりに従って個性を埋没させてしまうような実力しかない面々ではないだろう。
要するに“怪談社”という集団の個性を発揮させるために工夫が、ほとんど裏目に出てしまったという感が強いわけである。ここが話芸(彼らの場合はライブ)と文芸のパフォーマンスの差違であるとしか言いようがない。
しかし、これによって怪談社の怪談の質が劣ったものであるという結論は、完全な誤りである。怪談師の奇矯な振る舞い、劣悪とも言える文章技術を認めながらも、その書かれた怪異譚のネタの強烈さは色褪せない。さらに言えば、ライブで聞いた作品は全作品の3割にいくかいかないかという感じ。ライブで披露した話も含めれば、ネタの質と量では相当な水準を維持しているのではないだろうか。文章世界での完成度は低いが、原石としての魅力は抗しがたいものを持っているように感じる。
特に実話怪談にとって、文章技術は様式の属性に過ぎないが、ネタは本質の重要なエレメントであると信じる者から見れば、この本の持っているポテンシャルは非常に高いものであると思う。単に文が下手だからという理由だけで排除されるべきものではない(ただし当然のことであるが、次作があるならば、文章力の向上は絶対的に要求されるべきである)し、その排除によって失うものの方が大きいと思う。今回の瑕疵によってある程度の非難を浴びることがあっても、決して貶められるほどの酷さは感じなかった。むしろ新しい怪談ネタの供給の場が増えたことを感謝する気持ちの方が大きい。
これに懲りずにまた次作、というのが個人的な希望である。