『怪談実話 震』

震 フルエ (恐怖文庫)

震 フルエ (恐怖文庫)

本題に入る前に、この作品の評価に直結する怪談史的な話から。
言葉の問題として「実話怪談」が正しいのか「怪談実話」が正しいのかという、あまり建設的ではない論議がある。個人的な観点に立って物言うと、連綿たる怪談の歴史を紐解けば「怪談実話」という呼称に分があるとは思うが、ただし怪談史のタームとして「実話怪談」と特別に括弧付けで呼びならわすべきと主張するカテゴリーがある。それが1990年代から始まる『新耳袋』と『「超」怖い話』を筆頭とする時代である。
明確には記されていないが、この両書がほぼ同時期に出された背景には、“本当にあった”怪談話の過剰な演出に対するアンチテーゼがあったことはほぼ間違いないところである。具体的に言えば、スプラッター・ホラーの台頭による過激な筆致、例えば“血まみれ”とか“生首”の霊体の目撃談でなければ刺激がないと言わんばかりの、取って付けたような禍々しい表現に辟易としていた読者の不満に対して、“あったること”主体の怪談を提供したわけである。この点から鑑みれば、創作的な表現を極力廃し、事実のみをリアルに書き記そうとする姿勢の部分において「実話怪談」という呼称を冠することは吝かではないと思う。
この「実話怪談」のスタイルの特徴は“リアルな事実描写に徹する”という思想である。虚飾を排する結果、事実のみをごろんと置いただけの“投げっぱなし怪談”や、極限のリアル獲得のための“グロ怪談”や“罰当たり怪談”や、記録最優先で作者の思惑を超えた“現在進行形怪談”など、特化されたカテゴリーが発展していったわけである。そして記録重視の姿勢が、作者の文章力よりも取材した怪異のネタに絶対的な価値を見出すという傾向を生みだしたことも事実である(勿論、一定水準の文章力がなければ“記録”といえども読者を満足させることは出来ないのは当然であるが)。ただ現在の怪談界は、功罪の有無や歴史的評価は度外視して、この「実話怪談」が時代を席巻している状況がしばらく続いていると言って良いと思う。


ようやく本題であるが、この作品を最初数編読んだだけで、昨今の「実話怪談」とは違う味わいを覚えた。私自身はっきりとした言葉で表現することが難しいと感じるのであるが、言うならば、作者がストーリーを編み出している(創作という意味ではなく)、綺麗にオチをつけて話を円環のように閉じさせているという印象を強く受けたのである。単なる事実の“交通整理”にとどまらず、作者自身の怪異に対する思いであるとか見方であるとか、そういう部分までが作品内部にしっかりと備わって、そしてそれが読者に訴えかけることが出来ていると言うべきなのかもしれない。「実話怪談」の書き手が“作家”である以前に“記録者”の態度で怪異に向き合っているのとは、はっきり異なると感じたのである(ここでも言っておくが、「実話怪談」の書き手が劣るという意味ではなく、怪異の捉え方の質が異なっているという印象なのである)。
ここまで書くと“文章は巧いが、怪異の内容が薄い”のではないかという印象があるかもしれない。しかしながら、文芸作家の怪談話のように、ヘビーな怪談マニアからすれば大した内容でもない怪異に上品な味付けをした、悪く言えば“小手先勝負”のネタではなく、思わず引いてしまいそうになる強烈なネタも用意されている。このあたりが並みではないと唸らされるところである。
有り体に言ってしまうと、鋭角的な凄味というものは感じない。むしろ古風なスタイルを踏襲していると感じさせる部分の方が強い。しかし昭和時代以前の怪談の系譜とは一線を画しているのも事実である。言うならば「実話怪談」の時代の洗礼を受けつつも、それとはまた違う路線を歩もうとする意志を感じる。もしかすると、数年先になってから、この本が果たした役目を改めて評価しなければならない時がやってくるのではないかと想像してしまうだけの輝きがある。個人的な意見としては、「実話怪談」の時代20年をして、ようやくその先の地平が見えようとしている。あるいはアンチテーゼとしての「実話怪談」に対する新たな展開が始まろうとしていると思わせるだけのインパクトを、この本は持っている。
ただ正直なことを言うと、私自身も今までの「実話怪談」の世界と一体どのように違うのか明確な言葉を持ち合わせていない。ただ違いだけを直観的に捉えているだけに過ぎない。それだけに今後の作者の活動に期待するところが大きいし、次回作を首を長くして待っていたいと思う。とりあえず、今年一番の収穫であると言ってもおかしくないだろうことだけは断言しておきたい。