『無惨百物語 ゆるさない』

怪談実話 無惨百物語 ゆるさない (MF文庫ダ・ヴィンチ)

怪談実話 無惨百物語 ゆるさない (MF文庫ダ・ヴィンチ)

やや控え目に褒めると“数年に一度出るかどうかの傑作”と言ってもあながち間違いではない作品。黒木怪談については以前『震』で賞賛したが、それを上回る兇悪ぶりはほぼ手放しで評価しても良いと思った。全部で百話を揃えてきたところも挑戦的であるが、その大半が並大抵のきつさを超えた、暗澹たる気分にさせる痛みを伴う内容であるところも、実話怪談として堂々たる構えであると言えるだろう。最初の3話ぐらいで「これを一夜にして読むのは惜しい」と思い、毎夜五話ずつ、二十日に小分けして読み耽ることに決めたほどの、破格の評価であることを最初に告げておきたい。
先ほどに名を出した処女単著『震』の評において“新しい地平を開くもの”と述べながらも、その怪談の本質について明確な分析を果たすことが叶わなかった。しかし、この戦慄すべき百物語を舐めるように読むことで、ようやく黒木怪談の持つ凄まじい恐怖の源泉と思しきものを、自分なりに見出した。おそらくこの古くて新しい息づかいが、この作家を稀有な存在たらしめ、新しい地平を切り開く使命を請け負っているのではないかと推測する。
“兇悪ぶり”という言葉を使ったが、黒木怪談の真髄は、美しくまとめ上げられた円環のような、因果応報に近い閉ざされた時空の中で繰り広げられる恐怖であると思う。何気ない日常の異変から始まり、そしてそれがさらに連鎖的な怪異を紡ぎ出す。しかし真骨頂は、その現象が新たな悲劇の端緒であったというオチがさりげなく描かれ、しっかりと話が閉じているところにある。現在の主流的な書き方がオチを書かず、あるいは示唆にとどめてみたり、ちょっとしたエピローグで「まだ続いているぞ」と思わせてみたり、とにかく読者に投げかける手法であるのと比べると、黒木怪談は実に古風な構成・展開であると言えるだろう。古典的な怪談噺、もしかすると民話伝承の形に近いと言ってもおかしくないだろう。しかしこの因果の完結があまりにもやるかたないが故に、なまじはぐらかしたような昨今の書きぶりよりもダイレクトに読み手の胸に突き刺さってくるのである。メインである怪異そのものも強烈であるが、最後に添えられた後日談によってさらに奈落の底に落とし込む二段構えの恐怖をいとも“淡々と”書いてのけるのである。おそらく他の怪談の書き手であれば、このような美味しいネタに対して身構えすぎてしまって、どうしても作者の顔が文章の前に出てあざとくなってしまうような気がする。勿体ぶった書き方で嫌味を出すこともなく、かといって軽佻浮薄な雰囲気も微塵も見せない。何の感情も交えずに“あったること”として書き留めているといった印象すらある。しかしその言葉の持っている力の全てを見通しているからこそ、その場に置いているに違いないという確信もある。技巧や経験則といった計算式で組まれているのではなく、生まれ持った感覚に従って言葉を配置しているだけなのではと思わせる自然さがある。ここが黒木あるじという書き手の息づかいの凄さを感じるところであり、稀有な存在であると感嘆する部分である。
新耳袋』『「超」怖い話』を頂点とする「実話怪談」の世界観は、言うなれば、創作臭さのアンチテーゼとしての【現象至上主義】であった。怪異を描写し表現することに全ての労力をつぎ込んでいると言ってもおかしくない、ある意味「物語性」を度外視した展開が重んじられてきたと言える。締め括りにあたるオチを敢えて置かず、さらにはそのような形式を最大限に活かす展開を生み出す。あるいは怪異の肝をこれでもかと書き込むことで強烈なインパクトを作り出してきた。だからこそ、怪談の歴史の中でも特異な存在としての地位を獲得することが可能だったと思う。それに対して黒木怪談は、一瞬の怪異の閃き以上に時間の流れを感じさせる。もっと端的に言えば「物語性」を意識的に備えた作品であり、その手法は一時代前の民話や伝承話に似通っているように感じるのである。信じられないような見事なオチを最後に配することによって、有機的なストーリーが眼前に見えてくるのである。特に凝ったことを考えているわけでもなく、ただ単純であるが故に、そこに横たえられた負の感情が、読み手の胸にどっと勢いよく入り込んでくるのかもしれない。
最終部分については賛否があることは推測できるが、物語性を重んじる態度を貫くとするならば、このカタルシスは必要だったと見るべきである。癒しとか鎮魂とかいう言葉以前に、我々が“死”と向き合うためには不可欠な通過儀礼であると思うところである。いずれまたこの種の話は集まってくると思うが、その時には、またこの黒木怪談のコンセプトでまとめて読んでみたいわけである。個人的には百話全ての配列も含めて稀に見る傑作であると言いきっていい。