竹書房文庫いろいろ(短評)

本日取り上げるのは「恐怖箱」シリーズの2冊。わざと2冊を括って評を書こうと思う。というのも、この2冊は一対の怪談本として編まれたのではないかという思いが強いためである。そんな推測が頭をもたげたのは『油照』というタイトルのせいである。この「恐怖箱」シリーズで、3人の作家が名を連ねる“トリニティー”バージョンは8冊出ているのであるが、それまでの7冊が動植物の名を冠していたのに対して、この8冊目だけはなぜか全く違うカテゴリーの言葉が選ばれている。何かの節目でパターンを変えるのはあっても、この中途半端な時期のネーミングとしては違和感を覚えた。しばらく腕組みをして考えていたのだが、ふと前作のタイトルを思い出して閃いたのである。7冊目は『蝦蟇』……“ガマの油”……!
かくしてこんな好い加減な思いつきでこの2冊の関係を想起したのであるが、同時に眺めていると、内容的にも見事に対比するように編まれていることに気付いた。端的に言えば、<理の『蝦蟇』、情の『油照』>である。

恐怖箱 蝦蟇 (竹書房恐怖文庫)

恐怖箱 蝦蟇 (竹書房恐怖文庫)

『蝦蟇』の著者は深澤夜・高田公太・神沼三平太の3氏である。この本を読んだ直後の感想は“非常に理の勝った展開ぶり”ということに尽きた。特に今回のキーパーソンは高田氏であり、今までの氏の特色であった“出来の粗さ”という部分が影を潜めており、落ち着いた書きぶりを示していたのが印象に残ったわけである。当然の事ながら、深澤氏の大ネタぶり、神沼氏の安定ぶりは読む前からある程度予想が付いていたので、この高田氏の想定外の締まりぶりには瞠目した。
理の強さを象徴する作品を挙げるとするならば、深澤氏の「アイアンマン」、神沼氏の「負け犬」、高田氏の「六号の家」と「ベジボックス」だろう。“あったること”の事実を極力客観的に書くことに重点が置かれたような、良い意味で醒めた視線によって展開される話は、現象としての怪異を際立たせることで怪談の妙味を生み出していると言っていいと思う。丹念に事象を追うことで怪異を浮き彫りする、そしてその怪異が客観的に疑念の余地を残さないものであることを示しつつ話を進める姿勢は、やはり「理」の強さを感じざるを得ない。
恐怖箱 油照 (竹書房 恐怖文庫)

恐怖箱 油照 (竹書房 恐怖文庫)

対して『油照』の著者はつくね乱蔵・寺川智人・鈴堂雲雀の3氏である。【超−1】時代からの作風を見れば、まさに「情」を絡ませてくるのが最初から分かっている顔ぶれである。ただその人情話はハッピーエンドだけではなく、あまりのどす黒さに気分を害するものもある。そしてここぞという場面で登場人物の生の感情が文面に浮き出てくることで、ピンポイントで読み手の気持ちを鷲掴みにする。怪異そのものの強烈さもさることながら、それを体験した人物を巧みに描くことによって、ストーリーとしての幅を持たせることに成功していると言えるだろう。
情を際立たせる作品を挙げるとするならば、つくね氏の「みんなが待っている場所」、寺川氏の「俺の兄貴は世界一」、鈴堂氏の「飛ばす女」あたりか。どの作品も、怪異と同じだけ体験者もイメージ出来るほどのインパクトを持っている。というよりも、怪異と登場人物のどちらが欠けても作品の輝きは大きく損なわれるだろうと容易に想像が付く。そして怪異譚とは人のなせる業によって起こるものであることを、強く印象付けられる。


理と情のいずれが怪談を書く上で分があるのかという議論は、やはりこの2冊を読む限りでは、あまり重要なことではないという感じである。むしろ書き手の目を通して選ばれたネタを書き手の人柄(無理やり構築した書き方の傾向とは異なる、あくまでその書き手自身の生き様や思想から滲み出てきた個性)で書き上げることの方が重要だと思うところである。やはりこの書き手だから書き得た作品だと感じるところがあることは大切である。