『恐怖箱 怪生』

恐怖箱 怪生 (恐怖文庫)

恐怖箱 怪生 (恐怖文庫)

書評を始める前に、まず、まえがきにあった問い掛けに対する見解を書いておく。かなり長い文になるが、人間以外の生命体に「魂」はあるのかという心霊学的に大きな問題である故に書く必要があると思うわけであり、さらに言えば、この本に対する評を書く上での個人的指針でもある故に開陳すべきだろうと考えるところである。
結論から言ってしまえば、魂を持つ存在は人間以外にはあり得ない。動物も植物も本来的には魂を持たない。「魂」とは自然の摂理の中では異質の存在であって、高次の霊格である故にそれ単体で自然の中に存立可能、つまり自然の摂理とは相容れない状態で、自然を無視してこの世界に出現できることが可能な存在であると言える。「魂」を持つこと、即ち人間のみが自然の摂理に反することが出来る「意志」を持つのである。動物の行動規範が本能である限り、魂はないと言い切ってよいだろうし、その存在が目指すところの目的は全て自然の理に適う形で完結することになるだろう。植物もまた然りであり、自然の摂理の中でのみ受動的な生命を維持するものであって、それ以上の積極的な意志を持つ存在ではないだろう。
しかし動物は人間界との接触によって、魂に近い念を持つことが出来る。それは例えば人間によって飼われることによって、また人間の理不尽な欲求(捕食行為はこれに当てはまらない。食物連鎖は自然の摂理によって行われているからである)によって生命を絶たれることによって、動物は自然界で生きていく場合とは異なる世界を経験する。そして自然の摂理の中では得られない感情を持つに至る。それは愛情であったり憎しみや悲しみであったりする。そういう非自然の世界において日々発生する感情の中で、動物は本来得ることのない念を持つ。それは人間の魂同様、自然の存在を越えたものとして発動する可能性を帯びる(魂と念は、自然の摂理とは相反する原因であったとしても成立するものである点では非常に似通っている。しかし本質においては、魂は存在であり、念は作用であると言っていいだろう。あくまで似て非なるものであり、それ故に人間と動物とは異なる次元の霊格なのである)。
動物霊と呼ばれる低級の霊の存在は、食物連鎖以外の関係で、人間の都合によって生み出された念の存在であると言える。いくら苛酷な環境に身を置く存在であっても、人間との接触を持たない野生の動物が霊体となることは稀である。人間の意志から発する念というものに触れてこそ、あるいは食べられるという目的以外に理不尽に生命を絶たれる事態に陥ってこそ、動物は初めて霊となりうるだけの念を持つのである。別の言い方をすれば、自然に反して念を残すには、それなりの反自然的な行為に遭遇しなければならないのである。
植物の場合は、動物のように能動的な行動が取れない分だけ、鉱物に近い形で念を形成する。鉱物が自然の氣というものを時間を掛けて吸収するように、植物は人間の発する念を吸収してその身に蓄えることが出来る。植物は自らの念を動かすことは稀である(よほど念を溜め込むことが出来たならば、それなりの意思表示をすることは出来るだろう。その場合、人はそれを「精」と呼び慣わすことになる)。むしろ自然のうちに溜め込んだ念を発散することで、あたかも意志する存在のように見える場合の方が多いと考えるべきである。
動物のように急激な感情の変化によって念を生じさせることが出来ないために、植物が念を持つには相当時間が掛かる。それ故に樹木に対して草花が念を持つような怪異は非常に起こりにくい。そして時間が掛かった分だけ、念がその植物から抜けることもあまりない。一旦念を持てば強力な氣を溜め込んだ鉱物と同じだけの力を持つ。
人間との関わりにおいて念を発動させるあるいは蓄積することで、人間以外の生命体は魂に近いものを持ち、少なくとも能動的に行為する霊体となりうると判断する。しかし魚類や無セキツイ動物やもっと微小な生命体について言えば、おそらく念を持つために必要な感覚器官が備わっていないために、それ自体が念を持って能動的に怪異を引き起こすことはないという見解である。要するに、我々人間でも感知不能のものに対して何らかの反応を示すことが出来ない、とりわけ瞬間的な事態の中であれば念を発する間もなく死に至るのと同じである(人間の場合は、その瞬間的な死を迎える以前から念や氣を発して生活しているために、それなりに残留思念と呼ばれるものが形成されている可能性も高いだろうが。他の生物のように自然にどっぷり浸かった中では、そういうものが残される可能性はおそらく皆無だろう)。
昆虫などが怪異の中心に据え置かれるケースは、虫そのものではなく、それを意図的に動かす別の存在があるとみなすべきである。これらの生命体が能動的に怪異を企図することはあり得ない、そのようなものの姿を借りて怪異を為している「化身」であると考えた方が、正しく状況を把握することが出来ると思う。動物が登場する怪異でも時折人間の念がそれらを操っている話もあるし、植物に至っては人間の念が凝り固まって怪異を為すというイメージの方が強いと言えるかもしれない。
いずれにせよ、動物霊は人間との関わりの中で生み出されたいびつな霊である場合が多く、たまに長寿を得た野生の存在が自然に漂う氣や念を蓄えることによって霊的な性格を帯びるというのが、個人的見解である。人間以外の生命体が霊格を持つこと自体が稀であり、さらにその霊格が善性を備えていることは奇跡に近いことである(このあたりになると妖怪とか神とかいう別の概念との絡みがあるので、複雑で高次な視野が必要になるので、ここでは割愛させていただきたい。いずれまとめ上げてみたい分野ではあるが)。


長々と本とは直接関係ないような話を展開したのだが、実はこの『怪生』に収められた諸作品を読むと、意外と個人的見解に近いケースがあると思った次第である。複数の作家が聞き集めてきた複数の作品で、動物霊に関する考察が出来るというのはなかなか面白いと思うし、そういう知識とか先見とかがなくても十分堪能できる内容になっている。個人的にはやはり動物や植物ではなく、虫なんかが前面に登場する話の方が希少であるし、非常に興味を覚える。その点では雨宮氏の最終作は良い意味で唖然とさせられた(徐々に真相に近づいていく判じ物の展開も小気味よい)。他の作品、特に生き物が能動的に怪異を引き起こしていると判断される作品に関しては、希少性の点で既視感の強いものが多かったように感じる。やはり所詮畜生の浅知恵と言うべきなのかもしれないが。
しかし気付いたのは、動植物が怪異の中心となる実話怪談だけを集めた作品集というのは初見だということ。というより、シチュエーションを同じくする怪異譚は数多いが、いわゆる「○○尽くし」のようなガジェットで一冊を編んだ実話怪談集はあまり記憶にない。ある意味、人脈を駆使したなかなか面白い企画物ということになるだろう(ただし竹の子書房では常套手段に近いとも指摘できるだろう)。渾身とまではいかないが、それなりに楽しめる怪談本であると言える。