超−1 2008のまとめ

気付くと著者推薦締め切り日から1週間、あとは最終結果を待つだけの大会となった。
結果を見る前に、私の著者推薦結果を公開しておく。
言うまでもないが、これが絶対の結果ではなく、あくまでこの大会の個人総括ということで読んでいただければと思う。


その前に“偉そうで傲慢”な講評陣についても、色々と思ったことを放言しておきたい。
前の「作者短評」の部分でも書いていたが、今回の応募者の文章表現力については、前2大会と比べてもそれなりに底上げされていたように感じる。
今大会が概して講評得点が高かった(平均点が高い)のはその影響であると考えることが出来るが、だがそれだけではないというのが個人的見解である。
話がそれるが、かつてオリンピックの体操競技で10点満点をはじめとして高得点が連発したことがあった。
その原因は、演技中のぶれが少なくて着地がきれいに決まれば減点が少なくなるということだったように記憶する。
その採点基準の結果、選手は高度な技を選択せず、ミスが起こりにくいワンランク低いレベルの技を用いるようになった。
見映えは非常に美しいが、体操競技に伴うスリリングな醍醐味は消えてしまったという印象であった。
ちなみに現在は、選択する技によって加点方法を変え、レベルの低い技を完璧にこなしても高得点出来ないようなシステムになっているという。
だから競技者は上位に食い込むためには高度な技を選択しなければならず、引き締まった競技会になっているように見える。
今大会の講評得点の経緯を見ていると、ふとその体操競技のことが思い出された。

今大会で顕著にあらわれた傾向は、マイナス点を付けない講評者が増えたということである。
善意に解釈すれば“よくぞこんなあやしい実話を集めてくれてありがとう”ということでリスペクトした結果であると思っている。
だが悪意に満ちた解釈をすれば“応募者だからマイナス点を付けたことがばれたら後で何を言われるから分からないから、適当にプラス点を付けてりゃいいか”という風にも受け取れる。
得点を付けた本人に真意はどこまでのものかわからないが、だが、そのような傾向のために起こった結果は明白である。
【得点のインフレ】である。
冒頭部分で“講評得点が高かった(平均点が高い)”と表記した事柄が全てである。
非常に優れた作品と、さほどとも思えない作品との得点差があまりないのである。
「そこそこ読める」というレベルの作品で既にプラス点(下手をすれば「減点対象がないために満点」とされてしまっている)が付けられているために、傑作と呼ばれる作品がそれらを突き放して高得点を叩き出すことがあまりなかった。
そして凡庸な作品ほど、マイナス点を食らうことがないために、何となく点数が付いてしまったように思う。
個人的な感触としては、素点の平均は実際は10点ほど低いというのが本音である(当然のことであるが、全ての作品を一律10点ずつ低く見積もって見る必要はない)。

講評でマイナス点を付けないというのは講評者のポリシーであるから、それはその方向を堅持すればいいと思う。
しかし声を大にして言いたいのは、そのような高得点の配し方は、応募者に対するリスペクトにはなるかもしれないが、決して“作品に対するリスペクト”にはならないということである。
優れた作品は手放しで称賛し、改善の余地の大きい作品にはきちんと指弾する(ダメ出しした作品ほどしっかりとその理由説明をしなければならない)ことが、作品本位で見ることの本質であると思うし、私個人はそれが作者に対するリスペクトの方法の一つであると考える。

【超−1】の相互講評システムは評価できる部分は大きいという見解であるが、それはお互い(自分自身も含めて)がライバルであるという前提に立ってこそ生きている。
これがお互いの傷を舐めあうような、悪い意味で同人誌的互助会の様相となってしまったら、もはや死に体であると考えている。
厳しければいいというものでもないが、講評の質が落ちることは即ち大会の質が落ちるということである。
講評者はそれこそ“偉そうで傲慢”であってもいいと思うし、“抜き身の刀”で滅多切りにすることも辞さない構えであるべきだと思う。
だが“抜き身”を自在に使うだけの自信と技量、そして“偉そうで傲慢”である根拠を内に秘めていなければならないとも思う。
講評しているから“偉い”のではなく、そこに内容があるから“偉い”と思わせなくてはいけないのである。
自戒も込めて、思いつくまま記する。


さて前置きが長くなったが、個人の推薦結果を公開。
推薦は【24】氏。
期待は【11】氏。
上で書いたように、今回は“安打数”ではなく“打率”を重視した結果の人選であった。
【28】氏については、その量産については最大級の賛辞を送りたい(期間日数を考えれば過去最強だ)と思うが、如何せん、“単著”作者として読みたいかという点で後れを取ってしまった。
勿論、そのユーティリティーぶりは特筆すべきものであり、何らかの形で起用される可能性もあるのではないかと期待している。
あと注目したのは【6】【7】【13】【16】各氏。
この四者に共通する問題点は“安定感”であり、ネタの展開の方法、文章スタイルの確立、作品間の完成度の面でバラツキなり印象の悪さなりが出ていたように感じた。
【11】氏については、スタイルのバリエーションが課題であり、今後に期待したい。
全体的には、今年は文章巧者は多かったが、実話怪談の本質に迫るだけの力を持った作者が少なかったと思う。
当然書き手が存在し、その作品を書いているわけであるが、その部分を超えたところに“何かの縁があって書かされている”という意識がなければいけない。
怪談を書き始めると、頼みもしないのにやたらそのような話が舞い込んでくるという現象はよくある。
単に“怪談書き”だということが知れたせいもあるが、それ以外にも説明の付かない事情も存在することがある。
そのような状況を評して、ある大家は“供養のために書いているところがある”と述べている。
人知を超える部分があるから怪異であり、その怪異を扱うということは己の裁量を超えたものを感じながら書き続けることになるのだと意識することなのかも知れないと思う。
来年を期待して(本当にあるのか?)、今年の【超−1】関連は筆を置きたいと思う。
『蛇苺』楽しみにしています。