【−5】肉じゃが

“あったること”に対して体験者の推論を加味させて、あたかも怪異であると思い込んでしまったと言うべき作品。
この事故を怪異とみなすために用意された肉じゃがの“予知夢”そのものが憶測だけで成り立っている、少なくともこの文章を読んだだけでは、体験者が見た夢が“予知夢”であると判断出来る材料がないために、怪異そのものが成立し得ないと考える。
決定的なのは、奥さんが“今日は肉じゃがにしようかな”とは言っているものの、最終的にその日のおかずが肉じゃがであったことが記されていない。
もし奥さんが肉じゃがを作っていなければ“予知”ではないわけで、そのことに関する記述が全くない故に、結局体験者がその部分を憶測で“予知夢”であると断定しているに過ぎないとしか解釈出来ない(予知とはそれより後の未来に起こった出来事を的中させてこそ成り立つ現象だという認識が完全に欠落している)。
また確率論的に言えば、奥さんが肉じゃがをおかずとして作る頻度が明確でないために、体験者の見た夢が果たして本当に予知だったかどうかを判断するに足る情報がないと言える(今までほとんど作ったことのないおかずであれば何か引っ掛かりがあるかもしれないが、しょっちゅう作っているおかずであれば体験者の夢は普段の光景の再現でしかないだろう)。
結局のところ、なぜ体験者が自分の見た夢を“予知夢”であると確信したかの理由が全く根拠のない憶測である以上、起こしてしまった事故は単なる偶然と片付けざるを得ないのである。
しかも書き手(体験者も含めて)の運命論を持ち出して“あったること”を解釈する点についても、やりすぎとしか言いようがない。
実話怪談とは“あったること”そのものの積み重ねによって怪異であることが成立していなければならないものである。
体験者の主張は一聴に値するが、そこに客観的に怪異と認めるべきものがなければ、詰まるところ戯言と一蹴される運命にあるだけである。
仮にこれが創作怪談であったならば、事故に遭った者の“内なる確信”だけで怪異は成立しうると思うので、個人的にはプラス評価をしていただろう。