【+3】繁治さんのトマト

書き手が怪談の本質を知っていればこそ、小粒な怪異を光り輝く“怪談”として組み上げることが出来た佳作であると言える。
お盆(しかも新盆である)に自宅に戻ることなく畑をうろつく他家の子供の霊に対して怒鳴りつけた体験者の態度は、他家の迷っている霊が正しく戻れるよう、そして変な形で自分の家に居着くことを恐れて発したものであると考えられる故に、しごく真っ当なものである。
それが虐待を受けて亡くなり仏壇すらないという噂を聞いてから、黙って霊の行動を見過ごす態度に出たのは、体験者なりの哀れみの心の現れであるとことは言うまでもない。
過度の同情をせずに、ただ見守るという行動に徹した体験者の姿は、まさに生身の人間と霊との関わりの最も自然で理想的なものであり、そこから汲み取れる思いの強さはある種の厳粛さを伴うと言ってもおかしくないだろう。
もしここで話が終わっていたら、おそらく可哀想な女の子の霊を慰めるおじいさんという“いい話”で締め括られてしまっていただろう。
ところが、体験者が亡くなったことによって畑は荒れ放題となるという一文によって、事態は一気に変化を見せる。
幼い女の子の霊はこれから一体どうやって慰められるのだろうかという懸念が一気に噴き上がり、何とも言えない心的な荒涼を覚えることは必至である。
だが、この悲劇的な予測によって読者は、ハートウォーミングでハッピーエンドな終わり方よりもより一層幼女に対する慈しみの情を感じるはずである。
怪談の本来あるべき姿は、破滅的な悲劇であるといって間違いない。
その本質を知るからこそ、書き手はこの最後のエピソードを加えて、より一層の哀れみの感情を読者に衝撃として与えることを選択したのである。
個人的には、この効果を上げるために体験者の生前の言動をもっと無骨にしても良かったのではないかと思うが(特に体験者の幼女に対する思いを語るセリフは物分かりが良すぎるように感じるし、無骨であればあるほど畑がなくなった時に体験者の思いやりというものが強く偲ばれるように思う)、このままでもそれなりの効果が得られるだろう。
感動だけでは得られない強烈で複雑な感情を生み出すのも、また怪談の妙味である。