著者別短評の二

今回も短評の前に色々と…
今回の同定では、講評に関する情報が以前よりも詳細に提示されており、これを見れば少々鈍い人間でも誰が何という名前で講評をおこなったのか、またその名前から過去のランカー名が浮かび上がってくるという状態になっている。また書き手の講評ということでいえば、前からあったボーナスポイント制度も何かとゴタゴタの原因になっている。
私個人が著者推奨をする場合、それぞれの書き手の講評は全く加味しないことにしている。
作家がポリシーを語るという場面は今でこそ多くなったが、本来は“作品勝負”こそがあるべき姿のはずであったはずだ。作品さえ上質のものであればいい、こと実話怪談に限れば最上のネタを公開者であればどんな人間であっても構わないというのが読者の本音であると思っている。ところがこの大会だけは、何を思っている人間がいるのか解らないが、書き手の人格をことさらに問題視したがる傾向が強い。作品本位の大会であるにもかかわらず、である。
書き手と直接つきあう編集者であれば、相手のポリシーを知り、キャラクターを知っておかないと困る場面が出てくることは想像できるが、一般読者が書き手の人格そのものにいちいち口出しする(書き手自身が積極的に自己のポリシーを語れば話は別だが)のは低俗週刊誌レベルの覗き趣味であるだろう。講評はあくまで“怪談作家としての資質を主催者が知る”目的である。相互公開という形を取っているために表に出ているだけで、実際には多くのコンペではその部分は大抵マスクされている。講評内容を取りだして「○○は常識ある人間としてどうなんだ」とかいう意見がこの大会だけは取り交わされるわけだが、よっぽどこういう発言をしている人間の方がどうなんだと思うところである。
書き手の性格が出ていようがいるまいが、読者は作品本位で人選をすればいい。書き手の性格は、直接つきあうことになる人間が最終的にどうなのか決めればいいわけである。
ということで、今回の講評傾向の公開については個人的には賛成でも反対でもない。ただ、公開されて困ったことになる書き手がいれば馬鹿げたことだと思うし、この公開で推挙する人物を変更せざるを得ないと思う者がいれば愚の骨頂であると感じる。我々は実話怪談のコンペをおこなっているのであって、怪談作家の人格評価をしているのではないのである。

No.6
初期に過半数、あとは中盤と終盤に、総計14作を投稿。怪異のバリエーションが多く、ネタを精選してきているという印象である。特に終盤に出してきた『出席番号十一番』と『鏡(2)』は、評点デフレの中では健闘した内容であったと思う。ただ書き手本人が期待したほどの伸びはなかった点は残念である(逆に初期投稿作はインフレの恩恵を浴している部分が大きいのだが)。全体としては大ネタクラスの作品が出てきておらず、引き当てについては恵まれなかった書き手の一人であると思う。ただ作品群を見ると、それなりに記憶の淵から甦る作品が多く、何となく印象に残るものがある作品に書き手が丁寧に仕上げていると感じる。手堅いところを見せているといったところか。

No.7
会期中満遍なく11作を投稿。初期の投稿作に交じって、3月中旬頃の得点が低く抑えられた時期でもコンスタントに得点を重ねている作品が多く、1つずつの作品の高質さが目立っている。特に怪談の作法とも言うべき技巧部分でお手本となる内容が多く、『黒い紅葉』『次は何だ。』『繁治さんのトマト』あたりの強烈なオチを持つ秀作は、商業誌でも十分耐えうるレベルであるだろう。しかし『満月』や『しりとりしよう』のような長目の作品になると、逆に伏線が先読みされてしまうきっかけとなるという弱味もある。全体的には、構成の妙で読ませる技巧派という印象である。ネタについてもなかなか興味深い手広さを感じるところであり、総合的に見てもかなりの実力者であるといって間違いないだろう。

No.8
会期中満遍なく9作を投稿。飛び抜けた傑作もなければ、とんでもなくマイナス点を食らうということもない、不思議な安定感のある書き手という印象である。読んでいると、何となくドラマ仕立てのような印象が強く、ある意味“怪を通して人を描く”ことを主体としているのではないかと推測する。高い得点を得ている作品ほど、そういう人間心理を表すことに成功しているように感じる。しかしそれに矛盾するかのように、長目の作品になるとどうしても話が中途で端折られているという悪い印象が残っている。一番低い得点の『きっかけ』はそれの典型的パターンであり、『それぞれの別れ』『手招くもの』あたりでもその傾向は多分に出ていると言えるだろう。事前に構成を明確にした上で書くなどの工夫をすれば、こういう崩れ方は防げると思う。今の雰囲気で長目の話をじんわりと書ければ、かなり力が発揮できるのではないだろうか。