著者別短評の六

短評の1回目で“今大会をつまらなくさせた元凶は、講評陣のグダグダぶり”と指弾したわけだが、さらにその元凶を突き詰めると【拝点主義】という概念に行き当たると思っている。“誰よりも1点でも多く獲得して評価を受けたい”という気持ちがいつしか、本来の目的と方向性を見失わせていると思うわけである。
【拝点主義】がもたらした大きな問題点を、私なりに挙げてみた。
1.講評陣にマイナス点を付けにくくさせてしまった
マイナス点を付けない講評者が先にあったことは疑いのない事実である。その事実は、それぞれのポリシーに則って展開させたことであるから、そこに問題があったとは思っていない。しかし今大会、特に初期の講評に関しては“マイナス点を付けることが憚られる”というニュアンスが多分にあった。自分の判断に従って「駄目なものは駄目」ということが言えないような風潮は、批評をおこなう場面ではまさに“死に体”そのものであるとしかいいようがない。お互いの傷を舐め合うような批評精神の中で、切磋琢磨という言葉は死語でしかない。
2.粗製濫造の風潮を生み出してしまった
マイナス点が出ない傾向が強くなれば、余程酷い作品でなければ凡作でも加算が見込める。今までの大会であれば、投稿を控えてきたようなレベルのネタが、臆面もなく“小遣い稼ぎ”のために公開されるようになってしまった。またそのような作品に対して、講評陣は無批判的に得点を与え続けた(理由は“破綻のない内容”といういたって安易なものである)。結局そのような作品ばかりが投稿され得点を上げることは、結局“佳作”や“秀作”に対しての評価価値を下げさせるだけの効果しかなかった。良い作品と良くない作品とを見極めることの出来ない批評眼ほど害のあるものはない。講評のグダグダは、最終的に“面白い作品がめっきり少なくなった”という不満にしか繋がらなかった。だがそれを生みだしたのは当の講評陣であると声を大にして言いたい。
3.講評システムを巡って低次元のいさかいが続いた
掲示板を騒がせた【不正講評】問題にせよ【講評漏れ】問題にせよ、結局その発想の根本には1点でしのぎを削っていると思い込んでいる【拝点主義】的思想が潜んでいる。他の書き手よりも1点でも高く得点したいという気持ちの中で生まれてきた歪んだ発想であると、切り捨ててしまいたい気持ちで一杯である。正直、このような醜いいさかいが生じること自体が大会の質の低下に直結すると感じているし、このような取るに足らないレベルのことでゴタゴタが起きているようでは話にならないと思う。たかだか3人ぐらいの馬鹿が不正なことをやっても大勢が崩れるはずもなく、著者同定の後に結果を分析すれば、点取り亡者の誹りを受けて物笑いの種になるだけである。講評漏れも善意と親切の相互扶助の精神でなされているだけであり、そこに苦情を差し挟むのは見苦しいの一言でしかない。結局そういう部分にばかり目がいくような大会にして一体何が面白いのか理解に苦しむところである。

私の立場−3年連続ベスト講評者+全大会コンプリート講評者(と敢えて猛烈に上から目線で傲慢な立場を強調させていただく)−からはっきり言わせてもらうと、この大会で“1点のしのぎを削る”という発想そのものがちゃんちゃらおかしいのである。私自身、3点差の違いについては明確な基準を持つが、1点差の違いを明瞭に説明することは出来ない。点数はあくまでも全体の中における“目安”なのである。
【超−1】のランキングの最終決定権は主催者にあると、私は思う。だから講評陣の付ける点数に一喜一憂するのは構わないが、それが絶対的な数字であるとは思わない方がいい。つまり僅差で数字が上だからといって優劣が付いたことになっていないと思うべきなのである。講評陣の評点の総計は、いわば“淘汰”のシンボルであると見た方が正しいだろう。簡単に言えば、大きな区割りを設けて、そこに上位にランクされるべき書き手かどうかの選別を実施するのが講評陣の大きな役目であると思うのである。全権は主催者にあるが、講評陣の総意はその権限にプレッシャーを与える存在である。そこには講評陣の付けた微妙な得点の差違が入る余地はなく、ある程度大まかな区分による階層のみが有効になると考える。この容赦ない階層区分を作ること、つまり主催者の決定権に影響を与える流れを作ることで、講評陣は大きな役割を果たすことになっているのだと理解している。
そして最終的なランカーの順位が決まったとしても、私自身の意識は“上位ランカー”などという大きな括りでしかない。それぞれの個性を持って作品を出してくるランカーに対して相対的な優劣を付けることは、むしろ失礼である。さらに言えば、そういう目でしかランカー各位を見ることが出来ないのは、プライドを持って講評していないからだと思っている。それぞれの作品に思い入れがあるようにそれぞれのランカーに対して思い入れがあるから、その思い入れの源泉は私自身が全力で講評したという意識にある。順位などいう無機質な並びなど、議論の的にもならないのである。

最後に、1点の重みについて強く意識している書き手に問いかけたい。
「あなたは<誰のため>に実話怪談を書くのですか」


あまりにも熱くなりすぎたが、最後の一踏ん張り、短評を続ける。
No.30
1作のみの投稿につき、特に語ることなし。

No.31
1作のみ3月、あとは2月に集中させて5作の投稿。投稿数は少ないが、どの作品も非常に魅力ある内容であり、なかなか侮れない存在である。全体的には饒舌体の部類に入るが、一気に読ませるだけの文章力があってそれほどくどさを感じることは少なかった。しかしもっと言葉を削ってシャープな印象を与えることも可能だったと思うし、その方が怪異の迫力が出たと感じるところも強かった。またストーリーで読ませる部分が長いために、怪異が若干埋もれているという印象も残った。怪異の描写にもっと力点が置かれるような書き方をすれば、強烈な怪談話が作れるのではないだろうか。

No.32
2作のみの投稿につき、特に語ることなし。

No.33
3月前半に固めて8作の投稿。同定された作品群をまとめて読んだ印象は“文章が凝っている”というものである。特に冒頭部分の入り方は相当考えているなという感じである。しかしその文章技量が怪異を表現するのに活かされているのかといえば、むしろ足を引っ張っている雰囲気もある。特に『夕焼け』『ゴメンね』『チョコベー』あたりの作品は、怪異の弱さを文章で補おうとして却ってあざとい印象を植えつけてしまったように思う。文に溺れるというよりも、考えて凝りすぎて足下をすくわれているように見える。もっと素直に描写を駆使して“あったること”に特化した書き方をすれば、弱いながらも不思議譚の味わいが出たような気もしないでもない。周辺事情で変化を付けるのではなく、『山男の歌』のようにダイレクトに怪異に関係する内容で勝負して欲しいと期待したい。

No.34
2月中旬頃に5作の投稿。作品群としてみると、どうしても出てくるのは“書き手としての再構築方法の問題あり”ということである。体験者の主観をより客体化させ、読者を納得させる内容に検証を加えて書くことも、書き手としてやるべき作業であるはずである。それが結局のところ、体験者の話をそのまま再現するという形でしか再構築がなされていないという印象である。各作品とも何らかの形でそのような“体験者の言ったまま”のために、首を傾げてしまうような展開になっている。飽きてとして怪異をどのように見せるのか、体験者の主観をどのように修正して変な誤解を招かないようにするのかなど、そのあたりの工夫を施せばもっと高い評価を得られるものも多かったように思う。


…ということで、著者別短評はこれにて終了。何か短評よりも批判の方が強烈なインパクトになってしまったようなきらいもあるが、これはこれで語っておかねばならないという気持ちがあったので、各著者の皆さんには悪いが、敢えてこの場で書かせていただいた。
あとは著者推奨・講評者推奨の締め切り後に私の推奨内容を書いて、今年の【超−1】関係はやるべきことをやり尽くしたということになる。