「怪談をめぐる七つのQ&A」全力でこたえる(1)

東雅夫氏の『怪談文芸ハンドブック』を評した際に、専ら怪談を読み書きする者は第一部のQ&Aについてそれぞれの意見を立てることが肝要だという旨のことを書き、自分もそれを出してみたいと述べた。
ということで、私の怪談観というものを書いてみようと思う。

【Q1]怪談の定義とは?
人智を超えた実体・現象を表した話、あるいはそれらによって引き起こされる人間の感情を記した話。
やはり怪談の主体となるべきものは、超常的な存在や現象であらねばならないと思う。それが恐怖を感じさせるものであったとしても、人の為せるものを扱う話は怪談と呼ぶには少々引っ掛かりがあるだろう。また超常的な存在によって登場人物が何らかの強烈な感情(主に恐怖などの負の感情)に襲われるプロセスやリザルトを主眼として書いた話も怪談であると認められる。いわゆる“怪異を通して人を書く”という趣旨に則って書かれた作品である。
(ただし怪談と隣接する概念のジャンルは多数あり、これらとの概念の相違を明らかにすることが“怪談とは何ぞや”に対するしっかりとした定義づけになると思う。その意味では、まだ第一義のみを提示したに過ぎないわけである)

【Q2】怪談に特有の魅力とは?
超常的なものを扱うことが主体であることが怪談の第一義である以上、怪談独自の性格はその部分に集中することになると言って間違いない。
“超常的”という言葉は、我々の日常的常識の面においてはずれていることを意味している。つまり我々が普段暮らしている日常が基盤となって話が展開する。その日常生活の間隙を縫うように“あり得べからざる”事態が勃発し、そこに怪談が成立する。
“超常的な存在”に対して我々が一般に感じるものは【未知への畏れ】である。自分が捉えきれない存在に対する純粋な恐怖、あるいは不審や疑念そして違和感や不思議感という感情がない交ぜになったものが【畏れ】であると言えるだろう。この【畏れ】という感情は、まさに人間の本能においても最も原初的なものであり、最も剥き出しの強烈なものである。このような生々しい感情の発露を何の衒いもなく表すことが出来ることが怪談の魅力ではないかと個人的には思うところである。
さらに言えば【畏れ】の感情だけではない。日常的にあり得ない状況が生み出されることによって、その体験者は恐怖以外の感情を爆発させることもある。それは激しい思慕であったり、憧憬であったり、悲嘆であったりする。あるいはそれが笑いへと転化されるケースすらある。ただ一つだけ言えるのは、あり得ない状況の中で、通常の世界では得られないような感情の動きを自然なものとして見せることが可能だということである。
翻って、読者からすれば、未知なる存在そのものの記録を目にすることで畏れを覚えたり、超常現象の体験者に感情移入することで烈しい感情の高ぶりを覚えることになる。その感情は、日常生活の延長線の中で得られるものよりも強く深いものになるはずである。