「怪談をめぐる七つのQ&A」全力でこたえる(2)

怪談文芸ハンドブック (幽BOOKS)

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久々のエントリーということであるが、唐突に続きを…


 【Q3】ホラーと怪談の違いは?
 ホラーという言葉は、私の記憶している限りでも1980年代後半に一気に広がったという認識がある。そして文学よりも映画などのメディアの方が早いという認識もある。さらに言えば、この本に書かれてあるように、それ以前は「怪談」と「怪奇小説」と「恐怖小説」というそれぞれの言葉は混同され、また微妙なニュアンスの差が定義されずに論者の感覚によって語られる(ただしそこには東氏が書かれたような暗黙の解釈というルールがあったことは確かである)だけであった。要するに許容範囲が広く、その道の大家ですら明瞭な定義付けを行わずに使用していたのである。ところが1990年に入る頃にはホラーという言葉は、怪奇と恐怖にまつわるあらゆる種類の作品を統合する術語として君臨することになる。
 おそらくきっかけは、キングやクーンツといった新しい怪奇小説家の台頭にあったと思う。つまり伝統的な恐怖譚や怪異譚という括りだけは済まされない、恐怖にまつわるバリエーションが爆発的に増えたのである。そのために括りとしての概念語として、最も新しい概念語である“ホラー”を大きな網として類似するカテゴリーの統括者として被せたのである。だが、ホラーという言葉には、分野の統括であると同時に独自の領域がある。この独自の領域と“怪談”との相違点をあぶり出すことが最も重要な作業になるのだと思う。
 この作業を行うために、非常に重要なキーパーソンとなるのが平山夢明氏である。現代怪談における氏の役割は、怪談のジャンルにホラーの手法を取り込むことにいち早く成功したという評価に集約されるといっても過言ではない。怪談の土壌にホラーのレトリックをぶちこむことで新しい怪談方式を確立させた、つまり平山氏の怪談における特色と功績を抽出することが怪談に対するホラー独自の領域を明瞭にするものであると考える。
 功績という点で言えば、超自然的現象を扱う以外の、生身の人間が引き起こす異常な恐怖を括りとする“東京伝説”というジャンルの確立にある。これは戦前の“変態的猟奇事件(犯罪実話)”に類するものであるが、新聞沙汰にならないあるいは刑法的に犯罪としては軽微だが、あまりにも常軌を逸した内容である事件をトピックとして上梓したものである。戦前の猟奇事件は痴情のもつれとかとかく感情的な絡みのある内容であったが、東京伝説は快楽的な愉快犯や無差別犯罪の扱いが多く、いつ誰が被害に遭うか分からないという点での恐怖が現代的であり、同時に焦点となっている。これはホラージャンルにおける“サイコパスを中心とした人間の引き起こす恐怖”を怪談から完全に切り離して独立させたものとして、非常に評価できるものである。引き当ての強さで集めたネタの数が半端ではないためになし得た功績であり、実話というカテゴリーにおいて霊に関係する話と純粋に人間だけが絡む話とを分離させることによって、ホラーと怪談の分野を明瞭にさせたと言うべきであろう。
 だがそれ以上に注目すべき特色は、平山氏の真骨頂であるエグくてグロい表記である。『「超」怖い話』シリーズのカラーを決定付け、さらには確固たる地位を築き上げた平山節は、その圧倒的な描写力を駆使してあやかしの容姿をこれでもかとばかりに読者の脳裏に焼き付けることに成功した。過剰のまでに書き込まれた描写によって、その存在が霊であるが故に感じる恐怖よりも、その霊そのものの姿に生理的な嫌悪感を覚えて恐怖するというパターンが増えていったことは間違いないところである。それだけ平山氏の描写は他を圧倒するものであり、また個性的で強烈なインパクトを与えることが出来たのである。
しかし、このような執拗なまでの容姿描写は、実は伝統的な怪談では殆ど見られないレトリックなのである。むしろ怪談では容姿は紋切り型で表記され、その紋切り型であるが故に幽霊であるという認識に至ることの方が多い。あるいはある特定の個人の霊であることが判るための決定的証拠だけが強調されることはあるが、それでも“幽霊であること”が読者に判るだけの最低限度の描写だけでとどめておくのが普通である。つまり過激に霊の姿を描写して読者に恐怖を与えるという手法は、実は伝統的な怪談の手法に対して異質であり、これがまさにホラー的な表現であると言えると思う。
狭義のホラーの本質には“直截的な恐怖の刺激、特に視覚的効果と言うべきビジュアルにおける圧倒的な刺激を含む”のではないかと考える次第である。ホラーという言葉が最初に市民権を得て広まりだしたのは映像の世界であり、出版界ではマンガの領域であった。これは元来ホラーという言葉のニュアンスに“ビジュアル的な恐怖の演出”という暗黙の了解があったのではないかと想像できる。
それに対して、文学としての怪談は、文字による描写という手段を通してストレートでダイレクトな表現を避けることで、遅効性の高い恐怖を演出することを得意としていたのではないだろうか。曖昧然とした表現によって核心をはぐらかし、最後の最後でその正体をそれとなく明かす。そのプロセスの中に漠然とした闇を造成し、そしてそれに対する薄ぼんやりとした恐怖を想像によって増幅させる…これこそが怪談の妙味とも言える本質なのではないだろうか。そして先にも書いたように、ホラーとは違って、怪談には恐怖以外の感情の発露が多分にある。やはりホラーは恐怖を唯一無二の対象として成り立っている節が強いと思うし(ただしそれによって最も振れ幅の大きい恐怖を追体験させてくれることも出来る)、それに対して怪談は細やかな感情の機微に対応できていると言えるだろう。

 【Q4】なぜ、今ホラーではなく怪談なのか?
 つまるところ、ホラーというダイレクトな恐怖を中心とした作品よりも、怪談という感情の機微に触れてゆく追体験の方が日本人の感性に合うのだろうということ。一時的に怖いもの見たさの意識レベルでホラーを読んでいても、結局日本文化の中で生まれ育ってきた人間からすれば帰る場所は怪談でしかないと思っている。
 また殺伐とした世相の中で求められる怪異譚は、恐怖ばかりで彩られたものよりも、あらゆる感情の機微に通じたものの方がしっくり来るのではないだろうか。時代の要請などという大袈裟なものではないが、混沌として先の見えない時代だからこそ怪談の方が世相に受け入れられやすいように思うわけである。いずれにせよ、一つの文化風土の中で醸成され続けてきた伝統の方が息が長くなるのは当然の結果であるだろう。