【0】生ソーセージ

廃墟探検で怪異に見舞われる話の中でも、“一緒に行ったはずの者が全く違う記憶しか残していなかった”という怪異のパターンは、よくある話のレベルになりつつある。
この作品の場合も、話者は実際に廃墟に入ったとしながらも、もう一方は入っていないと言う。
一昔前の“実話怪談”であれば、これだけでも十分評価できる内容であったが、さすがにこの数年の傾向としては、それだけで読み手の無限の臓腑を満たすことは難しいと思う。
ただこの作品では、その探検中の怪異のディテール部分のリアルさと共に、探検後に見た夢や、その直後の両親の意味ありげなリアクションなど、それなりに怪異が続いているように思わせる内容が盛り込まれており、怪異の凄まじさをさらに増強させる方向で展開している。
しかしながら、元々の怪異の部分で体験者の記憶が食い違っていることから、実はこの種の怪異は決定的な根拠に最初から乏しく、この作品でも矢継ぎ早に怪異は展開しているものの、果たしてどこまでが最初の怪異と結びつけられるのかという部分で非常に曖昧なのである。
想像を逞しくすれば、書かれた内容全てが怪異と直結しているとみなせるし、逆に根拠に薄いということで全てを“思い込み”で一蹴することも出来ないわけではない。
おそらく書き手もそのあたりを考慮してか、一番最後に最も重要な物証である“カーテン”の存在に関する情報を持ってきている(廃墟に入っていないはずの友人も証言している、唯一の問題の物証である)。
このような配慮までしていながら、ばらけている怪異を繋ぐ細い糸の存在に大きな疑念をもたらす綻びを、思わぬところで見せてしまっている箇所がある。
それは“一緒に廃墟探検をした友人が自殺未遂を繰り返している”という噂を書いたところである。
この情報だけが、廃墟探検の時期と全く異なるわけであり、しかもあまりにも年月が経ちすぎているために、本当に自殺未遂の原因がこの探検にあったかを検証することも出来ず、まさに“思わせぶり”の典型的悪例のパターンにはまりこんでしまっている。
この存在によって、書き手が積み上げてきた雰囲気は一気に眉唾物に変貌してしまったと言わざるを得ない。
その当時に起こった話者の“あったること”だけを緻密に書いていたならば、相当な説得力を持てたと推測できるだけに、この飛躍した情報は致命的な内容であると思う。
不用意な一言で全体の信憑性を壊したという判断であり、残念ながらプラス評価を出すことはためらわれた次第である。
ただし、この致命傷だけではマイナス評価とするには至らず(それだけ話者の証言にはインパクトがあったわけである)、よってプラスマイナスゼロということにさせていただいた。